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阿須須岐神社
あすすきじんじゃ
京都府綾部市金河内町東谷1
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京都府綾部市にある。
綾部駅の北20Kmほどの金河内町に鎮座。
490号線沿いにある金河内町民会館の横から北上した突き当りに境内がある。
境内入口には石橋があり、その奥に鳥居。
形式は両部鳥居だが、笠木の上などに檜皮が葺かれている。
鳥居をくぐり参道を進むと、石鳥居があり、
奥に社殿のある境内。
正面に社殿があり、境内右手に神事舎。
大祭に大弓神事があり、神事舎から弓を射るようで
境内左手に、弓の的を設置する「あづち」がある。
「あづち」は、安土とか垜などと書かれるもので
的を立て掛けるため、砂を盛る場所。
社殿は、入母屋造の拝殿の後方に、流造の大きな本殿。
本殿には覆屋根が設置されており、
参拝時には補修のための足場が付けられていた。
参拝は、八月猛暑炎天下の午後。
日射しのために、コントラストの強い写真しか撮れなかった。
当社の社号は、資料によって
「阿須須伎神社」「阿須須岐神社」「阿須々伎神社」などと表記が異なるようだ。
掲載に際しては、鳥居扁額に記載されている表記を用いてみた。
創祀年代は不詳。
社伝によると崇峻天皇の頃。
古くは、現社地の西、金河内と坊口の境・金ヵ峰に鎮座していたが
和銅六年(713)、現社地に遷座したという。
元慶三年(879)、丹波国司が、
国家の吉兆である慶雲が、当社に現れたと報告しており
金河内の「金」は、この吉報によるものと思われる。
明治二年に、式内社・阿湏々伎神社に比定されていたが
明治十二年、篠田神社と式内社争いが起こり
式内社指定を取り消されたらしい。
社殿の左右に、いくつかの境内社がある。
社殿右手には、大川神社と金刀比羅宮。その奥に稲荷社。
左手には、八幡宮・八坂神社・愛宕神社を納めたものと、
その左に、もう一つの八幡宮がある。
境内入口 | 鳥居 |
参道鳥居 |
境内 |
あづち | 神事舎 |
社殿 | 社殿 |
本殿 |
社殿左の境内社 | 社殿右の境内社 |
どこかの遥拝所 | 右後方の稲荷社 |
(祭神)天御中主神・神皇産霊神・天皇産霊神 当神社は、吾雀宮(あすすぎのみや)又は金宮大明神(かねのみや)といわれ、明治12年式内社に当たる阿須々岐神社の社号を認可された。 志賀の七不思議の一つである節分の日「茗荷(みょうが)」占いをして、稲作の豊凶を神意に問う神事が伝わっている。昔は、丹後方面からも沢山参拝者があった。また、10月17日の大祭には、氏子中より選ばれた射手による金的を撃つ弓の神事や太刀振り、風流踊り、狂言などの郷土芸能が奉納される。本社の背後の高い山は、金ヶ峰と呼び、古代郷土人の信仰した霊山で、阿須々岐神社と共に原始信仰の古い形を伝えている。 −『平成祭データ』[原文ママ]− 阿須須伎神社大弓神事
大弓神事は阿須須伎神社大祭で奉納祭礼のうち最も主要
なものとして、遠く室町時代の後半から行われたと伝えられる。毎年の大祭(十月十日)の早朝に氏子の中から選ばれた射手十二人が、 神事服を着用して神事舎に着座し、素裸装束の師範ととも に射礼を行いその矢通し終れば射手三人づつ交互に四度立射し、 十五間へだてた垜にかかる尺二的に百射を行う。 続いて四寸の金的に奉射し、的中した第一矢をもって射上げとなり、 両的を神前に奉献し、射手全員正殿に正対して礼拝を行う中 で師範は大弓神事完了の賀詞を奏上する。 奉射は往時の典礼により、端正優雅な動作をもって終始し、専ら 自責内省心・技・体一致の全人格を傾注し、唯々神明の照覧に応 えることを心に念じて奉射される。 社頭の清浄の気ただよう中に勧められる厳粛な、古来変らぬ 伝統のあるこの神事を、参拝者は襟を正して見守り、神威 高揚あまねく輝やき渡る思がする。 大弓神事が終れば、始めて大祭儀執行する慣例は、古来から 今に伝承されるもので、大弓神事の終るのを待ち構えていた氏子は、 供揃いして四百米の練込みをし、神殿の儀、続いて振り物・能・能狂言・ 花の踊り等の芸能が少年や青年たちによって奉納される。 このように多彩な祭礼、殊に大弓神事が奉納される 神社は他にその例がほとんどなく、極めて貴重な伝統の ある祭礼として今後一層の振興につとめたい。 −境内案内板− |
当社境内から左手に降りる階段があり
その下に「御茗荷田」がある。
志賀里の七不思議に一つである「茗荷さん」で
旧暦正月三日に出てくる茗荷によって、吉凶を占うらしい。
社殿の各所に茗荷紋が付けられている。
茗荷が当社の神紋なのだろう。
御茗荷田 |
祠 | 茗荷 |
志賀の七不思議と「茗荷さん」の縁起
その縁起今から、およそ、一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心 勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐 することになりました。 すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親 王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に 七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の”藤波” ”金宮””若宮””諏訪””白田(後の篠田)”の五つの社を厚く信仰 されたということです。 親王の子孫、金里宰相は この五社の大明神に千日参りをされ、これを 記念して 藤波大明神には「藤」 金宮大明神には「茗荷」 若宮大 明神には「萩」 諏訪大明神には「柿」 白田大明神には「竹」をお手植 えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告 されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわ れるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」 「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ、 「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。 ―その奇瑞 阿須須伎神社=金宮大明神の「茗荷さん」 毎年、旧暦の正月三日になると、日の出より八時までの間に、清水 の流れる「お宝田」から、茗荷が三本出るのです。これを神前 に供え、その茗荷の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲 作の早稲(ワセ)、中稲(ナカテ)、晩稲(オクテ)の吉・凶を占い、 また、その年の作物の出来具合い、風水害、かんばつまでも占い ます。 この神事は、今も新暦の二月三日に「茗荷祭 祈願祭」として 行われ、地元の人から”ミョウガさん”と親しまれています。 参拝者には、この占いの写し(お宝付の写し)と、魔除けの矢、甘 酒、お餅などがふるまわれます。是非一度 お詣りください。 −参道案内板− |
「茗荷さん」に関する説明文中にあるように、
金里宰相は、志賀郷の五社に別々の植物をお手植えしたらしい。
その五社とは、下図の五社。
せっかくなので、他の四社に植えられたそれぞれの植物も掲載しておく。
藤波神社には藤の木が植えられていた。
旧暦正月元旦に、白い藤の花が開花し、宮廷に献上されていたが
鎌倉時代に、運送中の飛脚が箱の中の白藤を見ようとしたところ
一羽の白鷺と化して飛び去り、以後、その奇瑞が消えてしまった。
鳥居の脇の藤の木は、その子孫だという。
藤波神社 | 藤波神社 |
鳥居脇の藤棚 |
(祭神)火雷神 御神体は極めて素朴な木彫りで袈裟姿の僧形の座像である。 創建は、崇峻天皇の御代といわれる。 白藤開花の奇瑞について:いつの頃からか、藤の宮の神籠の白藤が正月元旦に開花する奇瑞が起こった。開花の奇瑞絶える。正安元年(1299年)。 正月の元旦、白藤の花を朝廷に献上のため、上京の途中で船井郡観音峠の頂上で休憩した際、使者が奉持せる箱の蓋を開いてみると、藤の花は怱ち一羽の白鷺と化して飛び去り、峠の麓の田の中の森に姿絶えたと伝えられている。 −『平成祭データ』− 志賀の七不思議と「白藤」伝説
その縁起今から、およそ、一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心 勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征 伐することになりました。 すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸 親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に 七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の”藤波” ”金宮””若宮””諏訪””白田(後の篠田)”の五つの社を厚く信仰 されたということです。 親王の子孫、金里宰相は この五社の大明神に千日参りをされ、これを 記念して 藤波大明神には「藤」 金宮大明神には「茗荷」 若宮大 明神には「萩」 諏訪大明神には「柿」 白田大明神には「竹」をお手 植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に 報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があら われるようになったということです。なおこの五社のほかに、向田の 「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これ らをあわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。 ―その奇瑞 藤波神社=藤波大明神の「白藤」伝説 毎年、旧暦の正月元日には、不思議にもお手植えの藤の木に 白い 藤の花が咲き、おめでたい香りがたちこめました。神社では、毎年 身体を心を清め、この藤の花を箱に入れ、宮廷に献上する習わしに なっていました。 年代もたち、鎌倉時代の後伏見天皇の即位の年(一二九九年)飛脚 がこの藤の花を持って京都に行く途中、観音峠の麓で、うかつ にも箱を開いて中を見ようとしました。すると不思議!この藤の 花は、たちまち一羽の白鷺になって北の空へ飛び去ってしまったと いうことです。この事件により、藤の花の献上はできなくなり それ以後、不思議な霊験も消えてしまったそうです。 境内に残っている この古い藤の木が その子孫と言い伝え られています。 −境内案内板− |
若宮神社には萩の木が植えられていた。
旧暦正月五日(あるいは二日)に、白い萩の花が開花し、吉凶を占っていたが
藤波神社の白藤が咲かなくなって間もなく、
当社の白萩も咲かなくなり、絶えてしまった。
社殿の脇には、替わりの萩の花が、新しく植えられている。
若宮神社 | 若宮神社 |
代替の萩の花 |
志賀の七不思議と「白萩」の縁起
その縁起今から、およそ、一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心 勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐 することになりました。 すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親 王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に 七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の”藤波” ”金宮””若宮””諏訪””白田(後の篠田)”の五つの社を厚く信仰 されたということです。 親王の子孫、金里宰相は この五社の大明神に千日参りをされ、これを 記念して 藤波大明神には「藤」 金宮大明神には「茗荷」 若宮大明 神には「萩」 諏訪大明神には「柿」 白田大明神には「竹」をお手植 えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に 報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があ らわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「し ずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらを あわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。 ―その奇瑞 若宮神社=若宮大明神の「白萩」 毎年、旧暦の正月五日になると、日中、お手植えの 白い萩 が咲き競います。おびただしく咲いた年は 吉、少ない年は 凶、 というようにして、その年の作物の吉凶を占い、この花を内神に お供えします。 この神事は、いつしか廃れてなくなりましたが 今は替わりの萩の花が植えられています。 −境内案内板− 若宮神社白萩の由来
崇峻天皇のおん時に、用明天皇の御子磨
子親王が、勅によってまつろわぬ者共をお
討ちになられ、この志賀の里をお拓きにな
つた。親王は第一に五社を興し崇敬遊ばさ
れた。その後親王のご子孫にあたる金里宰
相が志賀の里の領主となられ、祖先の遺風
をふまれて五社に千日祈願をなされその祈
願のお印に、それぞれお手植えされたと伝
えられている。若宮神社には一株の白萩が植えられていて 毎年正月二日にしろい花が咲き不思議がら れていたが、藤波神社の藤の花が絶えて間 もなく萩の花も咲かなくなった。 −境内案内板− |
諏訪神社には柿の木が植えられていた。
旧暦正月六日に、柿の実がなり、
午後には色艶がよくなるので「御用柿」と呼ばれ、宮廷に献上されていた。
ところが鎌倉時代に、運送中の飛脚が、熱い茶を飲んだところ
柿を納めた箱は飛び去ってしまい、以後、この奇瑞は現れなくなった。
社殿の左前方には、柿の木が植えられているが
当時の柿の木ではないと思う。
諏訪神社 | 諏訪神社 |
社殿前の柿の木 |
志賀の七不思議と「御用柿」伝説
その縁起今から、およそ、一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心 勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征 伐することになりました。 すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親 王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に 七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の”藤波” ”金宮””若宮””諏訪””白田(後の篠田)”の五つの社を厚く信仰 されたということです。 親王の子孫、金里宰相はこの五社の大明神に千日参りをされ、これを 記念して、藤波大明神には「藤」 金宮大明神には「茗荷」 若宮大 明神には「萩」 諏訪大明神には「柿」 白田大明神には「竹」をお手植 えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告さ れました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれ るようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」 「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志 賀の七不思議」として、今に語りつがれています。 ―その奇瑞 諏訪神社=諏訪大明神の「御用柿」伝説 毎年、旧暦の正月六日午前十時になると、不思議にもお手植えの柿の 木に柿の実が三つなり、日中になると色艶がよくなるというのです。 それで、御用柿とも、五色の柿、御所柿ともいわれ、毎年、宮廷に献上 する習わしになっていました。ところが、鎌倉時代、白藤事件より十三 年後の花園天皇の正和元年(一三一二年)に、飛脚がこの柿を持って京都 へ上る途中、喉が渇いたので、和知の民家に入りお茶を飲んだところ にわかに腹痛がおこり、それと一緒に柿の箱は北の空へ飛び立ってし まいました。それ以来、この奇瑞は絶えてしまったということです。 これまで、精進潔斎して身と心を清めてきたのに、火を通したお茶 を飲み「火のくい合わせ」の掟をやぶったのがいけなかったのです。 現在、境内に柿の木が残っていて、秋になると、たまに渋柿が なります。また、毎年、七月二十三日の「諏訪祭」には こども相撲 が奉納されます。 −境内案内板− |
篠田神社には竹が植えられていた。
旧暦正月四日に、筍が生え、吉凶を占っているらしい。
篠田神社 | 篠田神社 |
御ミノシベ |
志賀の七不思議と「竹の子さん」の縁起
その縁起今から、およそ、一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心 勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征 伐することになりました。 すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親 王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによるものと、丹波の国々に 七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の”藤波” ”金宮””若宮””諏訪””白田(後の篠田)”の五つの社を厚く信仰 されたということです。 親王の子孫、金里宰相は この五社の大明神に千日参りをされ、これを 記念して 藤波大明神には「藤」 金宮大明神には「茗荷」 若宮大 明神には「萩」 諏訪大明神には「柿」 白田大明神には「竹」をお手植 えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告さ れました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわ れるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」 「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志 賀の七不思議」として、今に語りつがれています。 ―その奇瑞 篠田神社=白田大明神の「竹の子さん」 毎年、旧暦の正月四日になると、日の出より八時までの間に、 神殿裏の「御ミノシベ」と呼ばれる竹林から、竹の子が三本出る のです。これを神前に供え、その竹の子の出る場所、その育ち具 合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)中稲(ナカテ)晩稲(オクテ) の吉・凶を占うのです。 この神事は、今も、新暦の二月四日に「筍祭 祈願祭」として 行われ、地元の人からは、”タケノコさん”として親しまれて います。 つい最近まで、氏子の人 数人が、三日間籠堂に泊まり、日に 三度づつ、氷のように冷たい篠田川の水を浴び、行をとってき ましたが、今は取り止めになっています。 是非、一度 節分の日にお詣りください。 −社頭案内板− |
志賀郷の七不思議は、旧暦正月に日替わりで発生するようで、
元日には、藤波神社の白藤。
三日には、阿須須岐神社の茗荷。
四日には、篠田神社の竹の子。
五日には、若宮神社の白萩。
六日には、諏訪神社の御用柿。
その他の「しずく松」「ゆるぎ松」には行かなかったが
二日、七日に奇瑞が発生するのだろうか。