[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
須波岐部神社
すはきべじんじゃ
京都府綾部市物部町横椽48
|
|
式内社 丹波國何鹿郡 湏波伎部神社 |
京都府綾部市にある。
綾部駅の北西5〜6Kmほどの物部町横椽に鎮座。
9号線から東へ1Kmほど入った場所に参道入口がある。
右手には燈篭が建ち、左手に小さな社号標。
参拝は夏休みの早朝。
参道奥の社域の背後には、朝靄が立ち込めて幽玄な雰囲気だったが
参道を進んでいるうちに、朝靄は消えてしまった。
参道を進むと鳥居が建っているが、
笠木(鳥居上部の横棒)が、湾曲した形状で面白い。
大きな扁額には「須波岐部神社」と社号が刻まれている。
鳥居をくぐり、参道を緩やかに登ると境内。
広場のような境内の奥、石垣の上にさらに境内。
その境内の奥、石垣の上に社殿があり、
石垣の左手前に境内社が二つ。
社殿は、本殿を納めた覆屋。
内部の本殿は、元和九年(1623)に再建された木造流造。
覆屋の左横には、大きめの境内社があり、
本社同様、大切に祀られている様子。
社伝によると、大同二年(807)、
須波伎山に創祀されたという。
三代実録の貞観十一年(869)十二月八日の条に
「授丹波國正六位上物部簀掃神従五位下」とある古社で
物部簀掃神と称されていたらしい。
簀掃(スハキ)とは、古代に掃部と称され
宮内省管轄の掃部寮に隷属した農民。
物部氏の部民として、清掃具や設営具などを納めていた者達と考えられている。
祭神は、大日孁貴命。
度会氏の『神名帳考証』には、彌都波能神・水稚姫とあり、
他の古記では「詳らかならず」とあすが、
掃部の祖神を祀ったものだろう。
大日孁貴命を祀ることから、日光大明神とも呼ばれていたらしい。
神宮寺の中谷山天慈院は、明治まで境内に建立されていたが
廃仏毀釈によって、境内より50mの位置に移転されたらしく、
『式内社調査報告』では、薬師堂一堂のみが残されたとある。
神紋に関して、
本殿覆屋の屋根に菊紋、境内社の屋根に巴紋が付けられていたが
『式内社調査報告』では日光大明神からか
日の丸の日光紋と載っていた。
実際に見ていないし、図案の形が想像できないので
残念ながら、掲載は割愛。
境内社に関しては、どの社が、なんという名前なのか確認していないが、
『式内社調査報告』には、摂社・広嶺神社、
摂社・天満・太田神社の名が記されている。
記載の順番から判断すると、
本殿覆屋の左が広嶺神社で、石垣左前の2社が天満宮と太田神社だろうか。
あるいは、覆屋左のものは明治時代に残された薬師堂で
石垣左前にあるのが摂社だろうか。
『平成祭データ』には、
中谷諏訪神社、天王薬王寺神社、岸田福成稲荷神社、
石隈八代荒神の名も記されているが
境内にあるのか、境外にあるのか未確認。
参道 |
鳥居 | 鳥居 |
参道 | 境内 |
境内 |
境内社 | 社殿 |
境内社 | 社殿 |
祭神大日例貴尊[原文ママ](オオヒルメムチノミコト、天照大神)
伝承によると第五十一代平城天皇の大同二年(807年)須波伎山に創建されたといい、三代実録によると貞観十一年(869年)十二月八日の条に「授丹波国正六位上物部簀掃神従五位下」とあり、古代から階位を有した神社であったことがわかる。
恐らく古代に於てこの地に勢力をもった簀掃物部氏の氏神であったものと思われる。
元和九年(1623年)再建、元文四年(1739年)に改築。
尚、華表の扁額は山階宮晃親王の染筆にかかる。
当社の神宮寺であったと思われる中谷山天慈院が境内に接して建立されていたが、現在は薬師堂だけが残って、等身大の本尊薬師如来坐像が安置されている。
本尊は室町時代中期を下らない仏像といわれている。
参道鳥居脇には樹齢数百年の欅がある。 −『平成祭データ』− |