[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
海神社
わたつみじんじゃ
兵庫県神戸市垂水区宮本町5−1
|
|||
式内社 播磨國明石郡 海神社三座 名神大 月次新嘗 |
兵庫県神戸市にある。
垂水駅のすぐ目の前にあり、海側に赤い大鳥居がある。
大鳥居には海側と陸側に、それぞれ扁額があるのだが
海側の扁額には「海神社」、陸側には「綿津見神社」とある。
当社・社号である海神社は、「わたつみ」と読むのだ。
が、古記録には「あま」「たるみ」などの読みもあるようだ。
大鳥居から100mほど北へ行くと境内。
境内入口には石造鳥居があり、
その傍らに、「國幣中社 海神社」と刻まれた社号標。
ちなみに、この鳥居の扁額には「海神社」とある。
鳥居をくぐると境内。
七五三の季節だったので、七五三詣の案内が置かれていた。
参道正面に、立派な造りの拝殿があり、
後方に流造の本殿が鎮座している。
境内には、新しい七福神の石像が並んでいた。
日向大明神とも称した古社で
式内社・海神社に比定されている大社。
播磨国神名帳にある垂水太神、海太神、衣財田太神である。
神功皇后三韓より凱旋の際
当地の海上にて暴風にあわれ、船が進まなくなった。
そこで皇后が斎戒して海神三座を祀ったところ
波が凪て、都へ戻ることが出来たという。
神紋は、海神社らしい波に菊。
図案が難しかったので、御朱印をいただく時に、
別の紙にはっきりと押しなおしていただいた。
境内社は、蛭子・猿田彦・稲荷を合わせ祀ったものと
天神社が確認できた。
海のそばにある大鳥居 |
海側の扁額に海神社 | 裏の扁額は綿津見神社 |
境内入口の鳥居 | 境内 |
拝殿 |
本殿 | 本殿 |
境内の七福神 |
猿田彦・蛭子・稲荷 | 天神社 |
拝殿の横に掃除中のおばさんがいた。
その向う、海神社本殿の脇に、祠が2つ見える。
が、瑞垣周囲に金網があり、近づけない。
おばさんに声をかけ、中に入っていいか尋ねる。
「でも、今は神さんは、おらんよ」
行事の時に神を移す祠のようだ。
「ええ、でも側で見たいんですよ」
「かなわんなぁ」と言いながら開けてくれた。
本殿脇の二祠 | 本殿 |
海神社 兵庫県神戸市垂水区宮本町。 旧官幣中社(現、別表神社)。底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神を主神とし、相殿に大日孁貴尊を祀る、当社縁起によれば、神功皇后征韓の帰途、海神三座を鎮祭されたのを創祀とする、以来、海上鎮護の神として篤い崇敬をうけ、平安朝初期平城天皇の大同元年(八〇六)には、神封一〇戸が寄進された。清和天皇貞観元年(八五九)には、従五位下から従五位上を賜った、延喜の制では、名神大社に列せられ、畿外の社ではあるけれども、祈年・月次・新嘗の官幣に預かった。朱雀天皇天慶三年(九四○)には正五位下となる。中世以降社勢の衰えた時期があったが、豊臣秀吉より祈祷料として山林の寄進があり、江戸時代には明石藩主松平氏より祭祀料が寄せられ、藩主も参拝した。万治三年(一六六〇)及び延享二年(一七四五)には、本殿の改造・修復の行われたことが、社蔵棟札によってわかる。江戸時代当社は、日向大明神と称されていたが、広田神社本絵巻には、四殿造風の社殿が書かれている。その後社殿は一つになるが、明治四年(一八七一)には、国幣中社に列せられ、同七年から八年にかけての社殿の造営を終えて、同三○年官幣中社に昇格した。また、社名を『延喜式』に基づいて「海神社」と復称するようになったのは、同四年のことであった。昭和三二年には、海神社馬場先浜に、丹塗の浜大鳥居が建立された。例祭一〇月一一日。特殊神事として、百燈明祈願神事がある、神前に種油を以て百の燈明を献じ、諸祈願を行うもので、特に新年の一月一日より三日まで多く行われている。また例祭の翌日一〇月一二日には海上渡御祭が行われる。神輿を御座船に移し海上渡御がある。その他、毎月二〇日には海上安全祈願祭が行われる。 −『神社辞典』− |