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玄武神社
げんぶじんじゃ
京都府京都市北区紫野雲林院町88
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旧村社 |
当サイト名、genbu.net に因んで、参拝。
大徳寺の南、建勲神社の東側。今宮神社御旅所のすぐ東にある。
境内はあまり広くはないが、本殿左には末社もある。
本殿の前に、(多分)石造りの玄武が置かれている。
陰陽道では、玄武(亀)=北=山で、朱雀=南=池、だが、
亀が池で、鳥が山だろう、と思うのは僕だけかな。
北=黒=水、南=赤=火だから、やっぱり亀は池じゃないのか?
祭神は、文徳天皇第一皇子・惟喬親王。
よって惟喬社とも称された神社。
『京都府愛宕郡村志』に
「村社社伝に惟喬親王の遺物なる剣を紀名虎の祭れるなりと云う」
とある。
紀名虎とは、惟喬親王の外祖父だが、
一説には、元慶二年(878)、
北区・若宮八幡宮の神職・星野市正源茂光が
惟喬親王寵愛の紀名虎所蔵の剣を祀ったとも。
室町時代には七尾神社の末社として七尾神社境内に祀られていたが
応仁の乱で七尾神社が衰退し、
七尾神社社地に今宮神社の御旅所が建立されるにおよび、
現在地に遷座されたという。
いただいた由緒には轆轤(ろくろ)始祖とあった。
社頭 |
本殿 | 拝殿 |
本殿正面 | 玄武 |
稲荷社 | 三輪明神 |
玄武神社 社名の玄武は、青竜、白虎、朱雀とともに 王城の四守護のひとつで、北方の鎮護神に由 来する。文徳天皇の皇子である惟喬親王を 祭神とし、別名惟喬社とも呼ばれている。 社伝によれば、親王愛蔵の剣を元慶二年 (八七八)に大宮郷の郷士星野市正茂光が 祀ったのが起こりといわれる。 康保三年(九六六)勅令により、山城国で 最初の鎮花祭が当社で行われたと伝えられ、 現在も毎年四月の第二日曜日に行われるこの 行事は、「玄武やすらい花」(重要無形民俗 文化財)とも呼ばれ、桜や椿で飾られた風流 傘を中心に、鉦、太鼓、笛等で囃しながら、 鬼や小鬼が付近一帯の氏子地域を踊り歩く、 芸能の上では、室町時代に流行した風流の 拍子物の影響を受けて今日に伝承されて いるもので、芸能の変遷過程を示すもの として貴重な存在である。 −境内案内より− 御祭神と御略歴 御祭神は、第五十五代文徳天皇の第一皇子惟喬親王。 御生母は更衣で、第八代孝元天皇の曽孫武内宿禰の末裔である正四位下刑部卿紀朝臣名虎の娘、従四位上紀静子であり、第五十四代仁明天皇の承和十一年一月二十五日(八四四)に誕生された。 親王は天安元年四十九日御歳十四才にて帯剣を許され、同年十二月一日御元服、四品を授けられ、同二年十月二十六日大宰師、貞観五年二月十日弾正尹、同六年一月十六日常陸太守、同十四年二月二十九日上野太守とならせらる。 親王は第一皇子であり聡明な方で、父文徳天皇の愛情もことのほか深く、皇太子になることが予想されていたが、嘉祥三年三月(八五○)当時もっとも権勢を誇っていた藤原良房の娘で、女御である藤原明子が第四皇子、惟仁親王を誕生するに及び、天皇は良房をはばかられて同年十一月に生後僅か九カ月の同親王を皇太子とされた。これにより藤原氏は外戚の権を専らにするようになり、天安元年二月良房は人臣で初めて太政大臣となった。 文徳天皇は天安二年八月二十七日(八五八)惟喬親王の将来に心を残しつつ在位八年、御歳三十二才で崩御され、惟仁親王が御歳九才で第五十六代清和天皇に即位された。 それ以後の親王は第一皇子として生まれながら、生涯国の中央の政治の圏外を歩まれることになったが、早くより時勢を観察せられ、山崎水無瀬に閑居され詩歌吟詠などを以て過され、河州交野の奈木佐の院に、紀有常(紀名虎の二男)、在原業平(紀有常の長女を妻とする)などと共に観桜されたこともあり、また叔父の常康親王の御殿である雲林院の傍らに新殿を建立して暫く住まわれ、江州小椋庄などへ移られて諸山の木地屋に轆轤の使用を伝えられた。 都にもどられてからは、洛北の大原、雲ケ畑、小野郷大森にと隠栖され、貞観十四年七月十一日疾に寝て仏に帰依し、素覚と号された。伊勢物語の「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは」の歌は、惟喬親王とゆかりのある在原業平が、冬の一日親王を訪ねて語ったときのものだと言いつたえられる。この時親王は「夢かとも何か思はむ浮世をばそむかざりけむ程ぞくやしき」と御返歌されている。 時の人達は親王のことを水無瀬の宮、小野の宮などと称した。御在世中、小椋庄に金竜寺雲ケ畑字中畑に高雲寺(惟喬般若)、大森字東河内に安楽寺、長福寺を建立され東河内にて御生涯をおえさせられた。御陵墓は北区大森東町及び左京区大原上野町に現存する。 −『平成祭データ』− |
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