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大兵主神社
だいひょうずじんじゃ
奈良県桜井市穴師
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式内社 大和國城上郡 穴師坐兵主神社 名神大 月次相嘗新嘗
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奈良県桜井市にある。
巻向駅の東2Kmほどの穴師に鎮座。
山辺の道を自転車で南下し、穴師の坂道を自転車で上ってきたが結構きつかった。
当社の手前には、野見宿禰を祭神とする相撲神社がある。
境内は広いが山の斜面に社殿があり、
大きな拝殿の後方、高い位置に三棟並んだ本殿がある。
相撲神社 |
本殿は三棟並んでおり、三柱の神を祀る神社。
三社とも式内社に比定されている古社。
巻向山(穴師山)山中・弓月岳にあった穴師坐兵主神社が、
応仁の頃に焼失し、現在地に鎮座していた穴師大兵主神社に合祀され
同じく巻向山にあった卷向坐若御魂神社も合祀されて
現在のような祭祀形態となったらしい。
山中にあった穴師坐兵主神社を上社とし、山麓の穴師大兵主神社を下社という。
もとは穴師大兵主神社(下社)だったが、現在は穴師坐兵主神社が正式な名前。
ただし、社号標などには大兵主神社とあり、通称は大兵主神社。
中央に祀られている兵主神は、穴師坐兵主神社の祭神。
社伝によると垂仁天皇二年の創祀。鏡を御神体とするらしい。
貞観元年に従五位下から従五位上に神階が昇り
延喜の制では名神大社に指定された。
兵主神については諸説あり、神社案内では御食津神。
一説には軍神として、大己貴神としたり、中国の武神・蚩尤とする。
『史記封禅書』の八神に、天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主があり、
兵主は蚩尤、黄帝と戦った軍神で、兵器の創始者である。
山東省武梁祠画像石 | 山東省沂南古墓墓室前室北壁上横額画像 |
右に祀られている若御魂神は、
社伝では三種の神器を守護された稲田姫命。
勾玉と鈴を御神体とする、芸能の神。
それでは、なぜ「若御魂」というのか謎だ。
一説には稚産霊を祀ると考えるものもある。
左に祀られている大兵主神は、
社伝では、剣(ホコ)を御神体とする武勇の神、相撲の祖神らしい。
一説には兵主神の親神として素盞嗚尊を祀るとするもの、
あるいは、天鈿女を祀るとする説もある。
ただし、天鈿女とする資料は、御神体が鈴であるとしており
若御魂神との混同が見られるようだ。
この三神が直系の武神であるならば、
素盞嗚尊(大兵主)−大物主神(兵主)−大国主命(若御魂)という系列を想像すると面白い。
また、神紋は「橘」であり、田道間守(はじめて橘を持ちかえった)との関連も示唆される。
大兵主の矛との連想と、穴師という鉄生産の地との関係から、
大兵主(あるいは兵主)を天日矛とする説もある。
さらに、若御魂=稚産霊とする説。兵主=御食津とする説を考慮すると、
大兵主=天日矛=豊受という考えはどうだろう。
つまり、豊受(大兵主)−御食津(兵主)−稚産霊(若御魂)。
天日矛と豊受は、同じ丹波・丹後地方に伝説が多く。天日矛を祀る出石神社は豊岡市にあり、
豊岡市にも幾つかの兵主神社が存在する。
豊受は、陸奥国風土記では、豊岡姫と呼ばれている。
弓月岳にあった穴師坐兵主神社の古社地と考えられる場所は
「ゲシノオオダイラ」と呼ばれているらしく、夏至の大平とすると、
弓月岳−上社跡−下社−箸墓古墳後円部中心が一直線に並ぶらしい。
つまり稲の播種時期(夏至近く)に、箸墓古墳から見ると、
弓月岳山頂から太陽が昇るらしく、稲作と関連する祭神(稲田姫命・御食津神)にも意味はある。
また「兵主」は「ヒョウス」と読み、妖怪ヒョウスベと見る説もある。
ヒョウスベは河童の仲間で、兵主神の眷属とする説もあるが、
穴師山の山人を山童(山の河童)と見たのかもしれない。
さらに穴師の語義には、穴を掘る人、つまり鉄を採掘する人々という意味の他に
強風が吹く場所という意味があるようで、風神を祀るとする説もある。
とにかく、興味のつきない神社。
境内社殿 |
三棟並んだ本殿 |
本殿 |
参道に末社・相撲神社が鎮座しているが
境内にも幾つかの境内社が祀られている。
『式内社調査報告』には、
須佐男神社、奇稲田姫神社、水神社、祓戸神社、八王神社、祖霊社の名があるが、
確認したものと違う。
天王社 | 水神社、橘神社、稲荷社 |
不明 | 出雲大神 | 天一社 |
大祓社(違うかも) | 祖霊社 | 祓社 |
大兵主神社縁起 大和平野の開拓は、その周囲山麓地帯からはじまったと考えられ、当社のすぐ西には垂仁、景行両天皇皇居跡があり、また少し西北には祟神、景行両天皇陵もある。さらに、日本最古の道路である「山の辺の道」は南方三輪海柘榴市からはじまって、その諸陵や皇居跡を通り、天理市を経て奈良市に通じている。またこの大和古道に、山間部から下りてくる道の交る地点らは古い市の発達がみられ、当社のすぐ西方も、いわゆる古の「大市」のあったところと考えられる。したがって、当社附近が、上代大和文化の一中心地域であったのはもちろん、最も早くひらけたところであって、こゝに大和一国の農耕信仰が集り、また、国土安穏の平和信仰が集るのは当然であった。とくに昔「福瀬路は畏き道」として、福瀬谷が大和から東国への一般通路とならなかった前、纏向川に添い、弓月嶽の麓を通って、大和高原の上に出て伊賀、伊勢に行く道は、大和と東国を結ぶ重要な交通路であった。これが重要であるだけに、同時にその大和平野への出口は、また東国の勢力から大和を渡る要点でもあった。これが当社がこの地に早く設けられ、国土繁栄(農耕乞雨信仰)、平和安全(鎮武信仰)の神として重要な国家の祭祀を受けるものであった。いわば、南隣の三輪山に鎮る大物主神が、出雲系の三輪族の祖神として、国土開拓神の信仰を集めたのに対応し、当社は、生産と平和の神としての国家的信仰によって始った神社であるといえる。有名な野見宿彌の角力の説話が当社にあるのも、それが天皇の国土統治の象徴として行われた呪術であるとされるように、当地は、古代大和、ひいては日本の一中心であったのである。 −『平成祭データ』− |