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水無瀬神宮
みなせじんぐう
大阪府三島郡島本町広瀬3−10−24
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旧官幣大社 |
大阪府島本町にある。
山崎駅の南西1Kmの広瀬に鎮座。
淀川の北岸、京都との境に近い場所。
171号線から少し北へ入った場所に境内があり、
参道入口は西側。
朝早く徳島を出発し、神戸を経由しての参拝。
ゴールデンウィークだが、早朝から大雨だったが
当社へ到着した頃は、シトシト雨に変わっていた。
入口に鳥居と社号標が立ち、木々の茂った短い参道を歩くと神門。
神門をくぐると、手水所がある。
境内の水は、「全国名水百選」にも選ばれた名水・離宮の水。
雨にもかかわらず、水汲みの参拝客が途絶えなかった。
当地は、貞観年間に惟喬天皇の別業地であった場所。
その景勝地に、後鳥羽上皇は水無瀬殿を造営し、
水無瀬離宮と称されていた。
後、承久の変により、隠岐に流され、
崩御された後鳥羽上皇の御遺詔により、
水無瀬の旧跡に「御影堂」が建立されたのが当社の起源。
最初は「法華堂」と称されていたが、
室町中期、後土御門天皇から、水無瀬宮の神号を賜った。
祭神は、その後鳥羽上皇。
同じく承久の変で配流されていた上皇の第三御子・順徳上皇と
上皇の第一御子・土御門上皇を配祀する。
明治までは、仏式であったが、
明治六年、正式に神道形式とし、官幣中社に列格。
昭和十四年、官幣大社に昇格した。
境内の右手に、境内社の小祠が並んでいる。
神紋は、天皇家を祀る神社に多い、菊の紋。
境内入口 | 神門 |
境内 |
社殿 | 拝殿から本殿 |
春日神社 | 柿本神社 | 星阪神社 | 稲荷神社 |
御由緒 水無瀬神宮
當宮は御祭神後鳥羽上皇が御造営になった
水無瀬離宮の跡で、往時は桜、山吹、菊の名所
として知られ、上皇も屡々行幸、歌合せ、蹴鞠、
狩猟、刀剣鍛作等も行われた。然るに承久の変
により、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、
土御門上皇は土佐(後に阿波)に遷御、それゞの地
で崩御。後鳥羽上皇は崩御になる前、この離宮
を管してひたすらその還幸の日をお待ちしていた水
無瀬信成親成父子に、左右の御手掌を捺した
御置文を下され、永く後生の菩提を弔うべく仰
せ下されたので、この離宮跡に聖廟を建て、上皇の
御影を奉安して、御慰霊申し上げた。世に「水無瀬御影堂」と称し、明治の初年迄仏式 混淆の行事が行われていたが、明治六年改めて 三上皇の合祀、官幣中社に列せられ、昭和十四 年官幣大社に昇格、神宮号を賜った。 戦後は神社本庁所属の別表神社として今日 に至る。
−参道案内板より− 水無瀬神宮略記
ここはもと後鳥羽上皇御造営の水無瀬離宮のあった所で、淀川の右岸にあり、上皇は京の都から船で下られ、たびたびお越しになったことは「増鏡」などの書物にくわしく記されています。この離宮では管絃の催し、歌の会、狩りや刀剣の鍛作なども行われ、「奥山のおどろが下もふみわけて道のある世ぞと人に知らせむ」
との御歌にみられるように、早くから上皇は鎌倉幕府執権北条氏の専横を憤り、遂に承久三年(一二二一)五月、討幕の兵を挙げられましたが、関東の大軍に敗れ、その結果、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐(後に阿波)に遷御になり、遂に都に御帰遷ならず、いづれも遠隔の地で崩御になりました。後鳥羽上皇は崩御の十四日前に御手掌を押した御置文を、水無瀬離宮を管していた水無瀬信成、親成父子に下し賜い、後生を弔うよう仰せ下されましたので、上皇崩御の後、隠岐へ御出発直前に藤原信実を召して描かしめられた上皇の御影を拝領して、離宮の地に御堂を建ててその御菩提を弔ったのが水無瀬御影堂であり、その後六百年、朝廷や武将の尊崇を受けつつ御慰霊の行事が続けられて来ましたが、明治六年、神社に御制定、官幣中社に列せられ水無瀬宮と称し、同時に土御門、順徳両天皇の御霊も共に祀られることになりました。昭和十四年、後鳥羽天皇七百年式年に当たり官幣大社に昇格、神宮号を賜りました。戦後は社格が廃されましたが、大阪府においては唯一の神宮であります。後鳥羽上皇は御生前、多芸多能であらせられ、文武両道にすぐれた御才能を発揮されましたが、特に和歌では歌聖と仰がれ、新古今集時代の中心であられました。ために、文学、学問、スポーツの神として、また後世御神威によって安産、盗難除の神として崇められています。 また、菊花を好まれ、御調度品のほか刀剣にも菊花を刻まれたほどで、その御霊に捧げられた供花の流れを汲んで、華道洗心流が興され、現在、神宮はその華元として各地に社中があり、毎年献花展が催されます。 近くに水無瀬川、水無瀬の滝などがあり、地下水に恵まれ、境内の「離宮の水」は名水百選の一つに指定されています。 −『平成祭データ』− |
【 水無瀬神宮 】