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金毘羅神社
こんぴらじんじゃ
山口県山口市香山町7−1
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山口県山口市にある。
山口駅の北2Kmほどの香山町に鎮座。
というより、観光名所として有名な瑠璃光寺境内にある小さなお宮。
9号線から北へ入った場所、山口県庁の北にあり、
瑠璃光寺を中心とした香山公園の中にある。
瑠璃光寺に入ると正面に本堂があり、右手に池。
池の奥に五重塔が美しい。
瑠璃光寺の右手の丘の上、池を見下ろす位置に祠が見える。
参道階段を上って行くと、当社の鳥居が立っており、
「金毘羅大権現」と染められた幟が立ち、流造の祠がある。
境内由緒によると、貞治三年(1364)、大内氏が航海の安全を祈願して
琴平の金刀比羅宮を鎮守の神として勧請したのが当社の起源。
瑠璃光寺の始まりは、
南北朝時代の武将・大内義弘によって創建された香積寺。
大内義弘が応永の乱で足利義満に敗れて戦死したため、
弟の大内盛見が兄を弔うために五重塔を建設。
嘉吉二年(1442)に完成したもので、塔の尖端まで31.2メートル。
現存する五重塔の中で10番目に古く、
法隆寺(奈良県)、醍醐寺(京都府)と並び、日本三名塔と言われているらしい。
また、大内氏の重臣・陶弘房を弔うために文明三年(1471)、
仁保に安養寺が建立され、明応元年(1492)に瑠璃光寺と改称。
境内由緒によると、陶弘房の子・弘護の頃に瑠璃光寺にも
金毘羅様が寄進されていたらしい。
江戸時代になって、毛利輝元が慶長九年(1604)に香積寺を萩に移転し、
元禄三年(1690)、仁保瑠璃光寺を香積寺跡地に移転したのが現在の瑠璃光寺。
宝永の頃(1704〜1710)、当社の信者であった商人・岡本某氏が
北越で海難に遭遇し、金毘羅大権現に祈願したところ、
全員無事に帰還する事が出来、感謝して当社を再建したという。
山口市内を観光しながらブラブラし、中原中也記念館を出た後に、
瑠璃光寺を見ていないことを思い出して参拝してみた。
鳥居 | 社殿 | 境内から瑠璃光寺 |
瑠璃光寺五重塔 |
瑠璃光寺 金毘羅神社由来
この金毘羅神社は、南北朝時代の貞治三年(一三六四)領主、大内一族が
隆盛を誇る頃、讃岐の国、琴平山(香川県)にある金毘羅神社本宮の
御分霊を勧請し、大内氏一族代々の鎮守の神として、祀ったのが
始まりで、御祭神は、大物主神と崇徳天皇の二柱であります。その頃は、神佛混淆の習俗があり、龍神や佛法守護の神、金毘羅大権現 と称されていました。 大内氏は、代官の島民遥役や更に明国との交易が頻繁となり、航海の 安全を特に願っていたようです。 当寺は陶弘房の菩提寺で あるが、文明三年(一四七二)その子弘護の時に金毘羅様が寄進されました。 宝永の頃、信者である山口の商人、岡本某氏が(屋号鍋屋)北越で海難に あい、梶を海底に失った時、この神に祈願した処、不思議な事に 神風が吹き雲が晴れて海上は静まり、無事乗組員全員が港に帰る事が 出来、民はそれを喜び、御礼に念願の社を再建されたものです。 金毘羅様は、(梵語クンピーラ=鰐魚)佛法の守護神の一つで、もと ガンジス河に住む鰐が神格化されて、佛教に取り入られたもの、 蛇形で尾に宝玉を蔵するという。水の中に住んでいるので、水難、 海難を避けるということで航海安全、交通安全の神様として信仰 されています。 薬師如来十二神将の一つとして宮毘羅大将または金毘羅童子にあたり、 琴平(香川県)の金刀羅宮に祀るのはこの神という。 当寺では、信者も多く毎年四月十日に大祭が行われています。 −境内由緒書き− |