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於保多神社
おほたじんじゃ
富山県富山市於保多町1−32  Zenrin Data Com Maps display !!


梅鉢

旧県社兼郷社

御祭神
菅原道眞
合祀 前田利次卿 前田正甫卿 前田利保卿

富山県富山市にある。
富山駅の東2Kmほどの於保多町に鎮座。
富山地方鉄道の稲荷町駅からは西へ1Km弱の位置。
しののめ通り(172号線)の西側に境内がある。
しののめ通り側にも境内入口があるが、たぶん表参道は西側。
奥田川のほとりに広い境内があり、敷地内に柳町保育所がある。

西側表参道入口の脇には「縣社兼郷社於保多神社」と刻まれた社号標があり、
東側しののめ通り参道入口には「於保多神社 天満宮」とある自然石の社号標。
通称は柳町天満宮と呼ばれ、境内の鳥居にも「天満宮」とある。

西側参道を進み、石橋を渡ると左手に手水舎。
手水鉢には牛の像が二体置かれている。
拝殿は瓦葺入母屋造平入りで向拝は銅板葺き。
後方の本殿は少し離れた位置にあり、銅板葺きの流造。
少し高い場所に祀られている。

境内の東南隅には、いくつかの記念碑が並んでいる。
境内の案内板によると、二代藩主前田正甫公頌徳碑や西南役記念碑、
富山藩の子弟の教育に功労のあった小西有実、有義、岡田呉陽の記念碑らしい。

弘長三年(1263)、比叡山で修行した旧当社神職畠山氏の祖・恵という人物が、
菅原道真が石榴を噛み出して火焔となしたの図を道真の師である法性坊尊意が模写した尊像を
越中国新川郡新庄に安置し、錦重山浄禅寺と号したのが当社の起源。
菅公を祖と仰ぐ前田氏の崇敬があり、
慶長年間、前田利長が寺町に移転。さらに万治四年、川辺の天神町に移転した。

後に前田利次が寛文五年(1665)浄禅寺境内に天満宮を設立。
宝永五年(1708)、現在地に遷座し、明治六年郷社に列した。

また、文化年間(1804〜17)、前田利幹が藩祖利次を祀り国玉社と称していたが
明治六年、国玉社を天満宮に合祀したいと願い出たが、
国玉社の称号が不当であるということで於保多社と改称。
明治七年、正式に於保多社を天満宮に合祀して郷社に列格。
明治九年、県社兼郷社となり、明治十一年、天満宮の名を於保多神社と改称した。

さらに、明治四十四年、富山二代藩主前田正甫、十代藩主前田利保を合祀した。

社殿や幕などに梅鉢紋が付けられていた。
梅は、天満宮を代表する神紋であり、前田家の家紋。
加賀前田家は菅原氏の末裔と称していたようだ。


西参道入口

西参道鳥居

東参道(しののめ通り側)入口

境内

社殿

社殿

本殿

本殿

境内隅の記念碑群

境内社殿

手水舎の牛像

絵馬堂にも牛像

於保多神社
 当社の創建は、弘長三年で、菅原道真を祭 り、後に富山藩祖前田利次、二代藩主正甫、 十代藩主利保 を合祀した。
 通称柳町天満宮と言い、古くから地方住民 の信仰があつく、明治六年に於保多神社と改 称し、同九年には県社となる。
 宝物には菅原道真公筆三社託宣書、菅公渡 唐絵像、及び一条兼良筆の桃花老人筆讃等が ある。
 境内には、二代藩主前田正甫の鋳造した時 鍾で作った正甫公頌徳碑や、明治十年西南役 で戦没した旧富山藩士の偉功を表彰した西南 役記念碑、及び富山藩の子弟の教育に功労の あった小西有実、有義、岡田呉陽の記念碑な どがある。

−境内由緒書−



【 於保多神社 (富山市) 】

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