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瀬戸菅原神社
せとすがわらじんじゃ
石川県かほく市瀬戸町ル90
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石川県、能登半島の付け根のかほく市にある。
七尾線の免田駅の南東に直線で2Kmほど、道程だと3〜4Kmほど。
日本海にそそぐ大海川に沿って走る227号線の北側に境内がある。
227号線は大海川の土手道のようで、
道路から少し下った場所に鳥居がある。
鳥居の脇には「村社瀬戸菅原神社」と刻まれた社号標。
境内入口は南向きだが、鳥居をくぐり参道階段を上ると、西向きの境内。
境内の西側の道路から車で境内に入ることができ、
砂利の境内には、数台の車が停まっていた。
境内の東側、一段高い場所に社殿があり、階段下には手水舎。
境内由緒書きによると、平成十六年(2004)の台風で倒壊した
河合谷の御山神社の御神木で手水舎が作られたらしい。
なるほど少し神々しいかな、などと考えながら階段を上ると拝殿。
瓦葺入母屋造妻入りの拝殿の後方、少し高い場所にある本殿は覆屋の中。
『式内社調査報告』によると、本殿は流造らしいが、
『式内社調査報告』に載っている昔の拝殿の写真は平入りで、
昭和六十二年(1987)の社殿の改築が行われたらしい。
創祀年代は不詳。
往古より大海の庄、瀬戸ケ口に鎮座し
大海荘十二カ村の総社として崇敬された神社で、
式内社・瀬戸比古神社の論社。
養老三年、僧泰澄が参籠して祈願したと伝えられ
後に真言宗系修験の社となった。
瀬戸の社名の通り、往古から水戸神・速秋津比古神を祀っていた。
昔は、この辺りまで日本海が迫っていたと考えられている。
天正年間、兵火にかかり焼失したが、
寛永年間、前田利家の遺命をうけた奥村永福により再建。
万治二年(1659)天満天神、少名彦命を合祀後、瀬戸天神社と呼ばれていたが、
明治六年(1873)、瀬戸菅原神社と改称。
明治四十年、夏栗の大国社、箕打の白山社を合祀し
大國主命、伊邪那美命を本殿の相殿とした。
社殿のそばに、磐持石(力石)が並べられている。
また、旧本殿・拝殿の鬼瓦が置かれており、
梅鉢紋が付けられている。これは前田家ゆかりの紋だろう。
また、旧本殿鬼瓦には、打出の小槌と宝珠が刻まれている。
打出の小槌は、合祀された大国社の大國主命に因むものだと思う。
南から社頭 |
鳥居 | 参道階段 |
西向きの境内 |
社殿 | 拝殿扁額 |
社殿 |
拝殿 | 本殿 |
磐持石 | 旧本殿・拝殿鬼瓦 |
瀬戸菅原神社御由緒
−境内由緒石碑より[原文ママ]− 瀬戸菅原神社御由緒 (御由来)当社の社伝及び神社明細帳によれば、往古より大海の庄、瀬戸ケ口に鎮座し、延喜式内瀬戸比古神社と云い、大海の庄十二ケ村の総社として信仰され、歴朝、奉幣使が幣帛を奉って参詣されてきた、その氏子崇敬者も多く、又神田も広かった。 戦国の天正十二年(一五八四)社殿や宝物は、兵火にかかって悉く焼失したが、寛永年間(一六二四〜)に、前田利家の命をうけて奥村永福がこれを再建、しばらくして万治二年(一六五九)には、天満天神と少彦名命を相殿にお祀りした。 宝暦四年(一七五四)には、各村々は神社を建立し、氏神を勧請してお祀りしたが天満天神の祭日には、たくさんの参詣人で賑わったので世上では、天神社と流布されるほどであった。 明治六年(一八七三)瀬戸比古神社を瀬戸菅原神社と改称した。 明治四十年(一九〇七)十月五日、当社に白山社、大国社が合祀を届出されたが二社に於ては、祈年祭並びに秋祭は、その後も斎行されている。 明治四十一年四月八日神饌幣帛供進社に指定された。 −『平成祭データ』− |