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八尾八幡社
やつおはちまんしゃ
富山県富山市八尾町下新町1422
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富山県富山市にある。
高山本線越中八尾駅の南1Kmほどの八尾町下新町に鎮座。
井田川を渡って472号線を300mほど南下した場所、
472号線の東側に境内がある。
境内入口は西向き。「八幡社」と刻まれた社号標が立っている。
社前に駐車スペースがあり、その奥、数段の階段上に鳥居。
鳥居をくぐると右手に手水舎。参道正面に社殿がある。
社殿の前に二基の灯籠が立っているが、雪囲いだろうか、竹が組まれていた。
参拝は10月だったので雪には早いし、あるいは転倒防止なのかもしれない。
拝殿は瓦葺入母屋造、後方の本殿は流造だが破風が前面にせり出した形で美しいフォルム。
本殿の側面はビニールで囲われており、これは雪除けだと思う。
当社の正式名は「八幡社」。
ただ、富山には八幡社という名の神社が多いためか、
境内の由緒書にも「八尾八幡社」と書かれていた。
ただ、八尾(やつお)町にも八幡社がいくつもあるのだが、
八尾町発祥の地にあるということで特別なのかもしれない。
なお鳥居扁額、拝殿扁額には「八幡社」とあるが
本殿扁額には「八幡宮」とある。
『全国神社名鑑』によると、
当社宮司(葛城氏)の祖であり。役小角の弟子であった卜丸正位が、
八尾町白木峰に金剛蔵王権現を勧請して金剛銅を開き、
行基菩薩像、聖徳太子像を彫刻して安置したのが始まり。
後、八尾町薄尾の地に前堂を建立した。
『富山県神社誌』によると、舒明天皇の御代、山背大兄皇子の乳母で
卜丸正位の祖母の鳥羽垂が預かった聖徳太子の尊影と、
金剛堂山に勧請した金剛蔵王権現を尊崇したのが始まり。
永禄六年(1563)領主斎藤長門守が瀬戸山の現社地を寄進し、天正四年(1576)に遷座。
八尾の人々は皇太子を尊崇し産土神とした。
富山藩初代藩主である前田利次も深く崇敬し藩の祈願所とした。
正保三年(1646)八尾瀧谷の産土神(聖徳太子)を合祀し八尾総産土となった。
天明八年(1788)井波屋清左衛門の発願により、
八幡社神体誉田別命を刻み奉納した。
明治元年太政官令により上皇太子宮と改称。明治三年八幡社と改称し、
大正十三年三月十九日郷社に列した。
祭神の大国主命は、昭和五十七年に合祀された旧小谷部落の牛嶽社の祭神。
灯籠には八幡系の神紋である三つ巴紋が付けられており、
拝殿の屋根には、これも八幡系の神紋である鳩の紋が付けられていた。
参拝時、八幡社なのでどちらかが当社の神紋なのだろうと考えていたが、
帰宅後、『全国神社名鑑』を眺めていると、当社の神紋は「丁字梅鉢」と書かれていた。
社頭 |
鳥居 | 社殿 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
雪囲い?の灯籠 | 拝殿扁額 |
八尾八幡社の由来
当、八幡社が誉田別尊(応神天皇)を祭神とし、
葛城宮司の祖卜丸正位が天平年間(約一二五〇年前)
に金剛蔵王権現を勧請したのが始まりといわれている。天正四年(一五七六)八尾町発祥の地といわれる 現在地に社殿を建て、天保二年(一六四五)八尾産 土神瀧谷神社(祭神聖徳太子)及び瀬戸山蓮勝院 を合併し、八尾総社として尊崇され、大正十三年 郷社に列せられた。現社殿は天明元年(一七八一) に再建されたものである。 昭和五十七年には、旧小谷部落の牛嶽社(祭神 大国主命)をも合併した。 春季例大祭の神輿渡御は、露払いとしての獅子舞、 隨行としての六本の曳山(県・町指定文化財)の豪華絢 爛さと相まって、県内屈指の祭礼として著名である。 なお、当八幡社は厄除・家内安全・交通安全の 霊験あらたかとしても尊崇されている。 −境内由緒書− |