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菟橋神社
うはしじんじゃ
石川県小松市浜田町イ−233
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石川県小松市にある。
小松駅の北西1Kmほどの浜田町に鎮座。
360号線の北側に境内がある。
360号線に面してはいるが、境内入口は南東向き。
鳥居をくぐり、参道を進むと正面に立派な社殿。
拝殿の後方には、一間社隅木付き春日造の本殿がある。
本殿の左手に、神明宮と思われる境内社があり、
その近くに、台座に乗った卵型の丸石が置かれていた。
かたわらの石柱に文字が刻まれていたが、よく読めず。
境内には、砂利の広い駐車場があり
当社の参集殿である諏訪会館は総合結婚式場となっているようだ。
参拝後に御朱印をお願いしようと思ったのだが
忘れてしまった。残念。
創祀年代は不詳。
一説には、反正天皇の御宇(五世紀)、
あるいは文武天皇慶雲元年(704)の創祀とも伝えられる、
式内社・菟橋神社に比定されている古社。
はじめ得橋郷の小野にあって郷内三十か村の総社であったが
中世末、あるいは治暦元年(1065)、上小松村に遷ったという。
文明の頃、一向一揆によって社領・社宝を失い衰退したが
江戸初期、前田利常が小松在城の際に城中の菟橋門内に遷し
さらに正保年間、あるいは慶安四年(1651)
浜田の庄の神明宮の社地を拡大して
新たに社殿を造営し、遷座されたという。
相殿に諏訪神を祀っており
明治八年七月、菟橋神社の社号を停止され
小松諏訪神社と改称させられたが
明治十五年、菟橋神社と復称した。
いまでも一般には「お諏訪さん」と呼ばれているらしい。
明治十四年七月郷社に列し
明治二十九年九月県社に昇格した。
社殿には普通の花菱紋が付けられていたが
拝殿の提灯には、中陰花菱らしき紋が描かれていた。
丸石の近くに粟島社。
その他に、白山社、少彦名社、荒御魂社、
稲荷社、琴平社などの境内社が並んでいる。
琴平社の斜め前に、社号未確認の境内社があるが
その賽銭箱に梅紋が付いていたので天満宮かもしれない。
社頭 |
鳥居 | 参道 |
社殿 |
拝殿 | 境内社と本殿 |
境内左の丸石 | 粟島社 |
本殿横の神明宮? | 白山社 |
荒御魂社、少彦名社 | 天満宮? |
稲荷社 | 琴平社 |
延喜式内社 莵橋神社(お諏訪さん)略記 御鎮座の由来 当神社の創立は遠く古代にさかのぼり社伝によれば人皇第四十二代文武天皇慶雲元年(六九七年)と伝えられ醍醐天皇延長五年(九二七年)には早くも延喜式神名帳に「加賀国能美郡八座並小莵橋神社」として登載されている古社である。 和名抄に言う加賀国能美郡得橋(うはし)郷三十ケ村の総社として当時の国王、守護職を初め上下一般の庶民から篤く崇敬されていた。莵橋(うはし)神社の名称もこの得橋(うはし)郷の名によるものであり、雨水期には洪水氾濫して高地所々に浮き上り恰も浮橋の如くなるにより「うはし」の郷名が生れたと古書に記載されている現在の梯川地域である。 鎮座地については古来から幾多の変遷があったと思われるが神社の社記や古文書或は前田家所蔵の加賀国神社縁起等によると初めは国府の所在地に近い能美郡得橋郷小野村に在り国司、守護職等の祈願所として例年国土開拓天下泰平の祈願を行っていた。 中世末に至って得橋郷上小松村に遷り更に徳川時代の初期中納言前田利常卿が小松城に居を移されるに際し小松城内の兎橋御門内に奉遷して小松、金沢両城の守護神として篤く崇敬の誠を捧げられ慶安四年に梯川の下流の中央に位置する浜田の庄の神明宮の社地を拡張し、ここを永代の神域と定められ新に社殿を造営し遷座したのが現在の莵橋神社の神域であり本殿は当時の建造物である。 −『平成祭データ』− |