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阿奈志神社
あなしじんじゃ
福井県小浜市奈胡字宮の脇62−27

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式内社 若狭國遠敷郡 阿奈志神社 |
福井県小浜市にある。
小浜駅から北東に4・5Km、
羽賀谷の最奥部、奈胡に鎮座。
鳥居をくぐり、参道を歩くと境内。
参道左手には、幾つかの境内社。
入口から、稲荷大神、大将軍大神、
八社御霊(これはよく読めなかったので違うかもしれない)、
若宮八幡、大山祇、金刀比羅宮。
参道を抜けると拝殿。
その後方、階段の上に本殿がある。
本殿に左手の祠には、豊受大神宮と書かれていたが、
その下は井戸でもありそうな雰囲気。
天應元年(781)三位中将源義昌により、天ヶ城山に創立。
天徳二年(958)現社地に遷座したという。
江戸時代には山王宮と呼ばれていた神社。
阿奈志は、穴石(伊賀に穴石神社がある)と解釈し、
穴(アナ)は「タナ」、石(シ)は「リ」に通じ、
棚織、つまり機織りの神を祀っているとする説がある。
また、穴師(大和の穴師坐大兵主と同じ)と解釈し、
兵主神を祀るとする説もある。
社頭 |
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参道 ![]() | 参道の境内社 ![]() |
境内社 ![]() | 境内社 ![]() |
境内 |
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拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
本殿 ![]() | 本殿 ![]() | 本殿 ![]() |
本殿には巴紋が付いていた。
当社の近く、
に姫宮神社というのがある。
少し離れた羽賀宮神社(下照姫命)とは姉妹神であるらしい。
大正11年の『若狭遠敷郡誌』によれば、
阿奈志神社の境内社として姫宮明神が記されており、
当社と関係する神社であることは確か。
阿奈志神の妃神を祀ったものだろうか。
姫宮 |
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阿奈志神社
奈胡集落の北側山裾にある。祭神大己貴命、
旧村社。「延喜式」神名帳にみえる遠敷郡「阿奈
志神杜」に比定される。近世までは山王社また
は山王宮とよぱれ、安永二年(一七七三)の吉村
定教等連署山王宮神事等ノ儀ニ付返答書(当社蔵)
によれぱ、山王宮は天ヶ城に昔住んでいた三位
中将源義昌が、天徳三年(九五八)社を建立し、
日頃崇敬していた大己貴命を勧請、それ以降山
王権現と号し、国富荘四カ村の惣杜としたとい
う。「若狭郡県志」には「康応弐年三月十五日沙
弥大西寄二附田地一、文明九年斯処之地頭寄供米
料一石、又元亀二年山県下野守秀政或作政冬寄供
米料一石」とあって、中世には武家方の庇護が
あった。また羽賀寺文書の山王大権現鎮座記に、
山王権現の本地は医王(薬師)菩薩で、天暦元
年(九四七)八月下旬に羽賀寺の山から青竜が出
て洪水となり、山が崩れた。同二年羽賀寺建立
のときに山王権現を奈胡村に遷座し、四カ村の
氏神とした。そのとき、奈胡村の住人晴俊を神
主とすることが羽賀寺の坊中より定められた。
永享元年(一四二九)再興され、そのとき宝聚院
住持の定乗が遷宮などを執行したと記され、羽
賀寺が別当だったことが知られる。宮座をめぐって氏子圏の奈胡・熊野・羽賀・次 吉四ヵ村は争いを繰返していたが、寛文年中 (一六六一−七三)より各村交代して勤仕するよう になった(「山王宮・姫宮大明神祭礼并神事次第」阿奈 志神杜文書)。奈胡村の庄屋和久田氏は延宝五年 (一六七七)御供米田一反、元禄三年(一六九〇)一 反三畝一〇歩の田地を寄進ている(同文書)。 なお当社禰宜家は奈胡村竜雲寺の檀家であった が、明治元年(一八六八)の太政官布告で寺方よ り離檀した(「竜雲寺離檀証文」同文書)。近世まで 祭礼は四月・九月両度の初申日であつたが、現 在は五月一日・一〇月一日、神事次第は梅宮社 (現京都市右京区)の祠官家橘家流に基づく。 −『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』− |
【 阿奈志神社 (小浜市) 】
