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射水神社
いみずじんじゃ
富山県高岡市古城1−1
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式内社 越中國射水郡 射水神社 |
富山県高岡市にある。
高岡市の中心部、高岡古城公園の中に鎮座。
外濠にかかる橋を渡り、市民会館・中央図書館の横を通って、
内濠をわたると正面に鳥居、奥に社殿が見える。
古城公園には、他にも体育館や動物園などもある。
参道や社殿は南西向き。
社殿の回りは樹木が茂り、散策には良い場所。
社伝によれば、天武天皇三年の奉幣をもって鎮座の年としている。
また、延喜式神名帳に「名神大社」と記されているとあるが、
延喜式の写本によって違いがある。
出雲本では、当社・射水神社が名神大社となっており、
現在、最古の写本とされている九条家本では、
気多神社が名神大社となっている。
4Km北にある二上山を神体山とし、以前は、その麓・二上に鎮座していたが、
明治に現在地に遷座したが、二上の氏子の反対にあい、
古社地にも、分社が残され、戦後独立して二上射水神社となっている。
当社の摂社は、以前は二上射水神社の摂社であった。
日吉社(二上山第一峯山頂)、悪王子社(二上山第二峯山頂)、
院内社(二上山前面北の峯山頂)、諏訪社(二上山前面西麓)。
神紋は稲穂の紋。祭神・瓊瓊杵尊によるものだろうか。
後の花形は、資料には、「八つ花形」とあるが「八咫鏡」と見た方が、
祭神には似合う、と思う。
社号標 | 参道 | 鳥居 |
境内 |
扁額 | 社殿 |
木々の向うに微かに本殿 | 拝殿 |
由緒
祭神 二上神 例祭日四月二十三日北西五粁の二上山にこの神の降臨は悠久の古代 に属し詳らかでないが天武天皇の三年(皇紀一三三五 西紀六七五)正月奉幣 に與られた傳承を以て鎮座の年と定めた次いで慶雲三 年初めて祈年奉幣の例に入り宝亀十一年從五位下の神階に 叙せられ延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた やがて戦国の世屡ゝ兵火に罹り頽廃したが前田利家 利長の保護により輪奐を改め明治四年國幣中社に列した 維新の神佛分離規則に從い且つは広く県民の崇敬に迎え られ寺坊所管の二上を離れて明治八年九月現在地に遷座せられた從
−境内案内− 射水神社参拝のしをり
創始は太古のことで、年代は詳かではないが、延喜式内名神大社であり、越中文化発祥にゆかり深い大守護神として崇敬せられている。伝によれば、養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建て、この神を祀り、二上権現と称した。当時の領域は、二上荘六十七カ村、社寺は二上全山に亘り二十二万余坪に達したと云〓われ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた。その後、承平ら、天正の両度兵火により悉く烏有に帰し、一時衰頽したが、慶長年間、前田利家卿社殿再建の上、社領および一山を付し、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し、明治維新まで続いた。明治四年、国幣中社に列格し、同八年、高岡城本丸跡の現在地に遷座され、同三十三年六月、高岡大火の折類焼、同三十五年復活。特に昭和の御代、五十年四月には「日本書紀」に天武天皇三年(紀元千三百三十五年)正月、奉幣に与ったことが見えることより起算して鎮座千三百年式年大祭を斎行。畏きあたりより奉幣の栄に浴した。又、昭和五十九年には新たに「参集殿」が竣工、輪奐に一層の光彩を加えた。 幾歳の春風秋雨ありと云え、我が日本の神々は、徒に腕力や智力を以て秘と嚇し掠める逆賊を懲らし、朝夕に忠実な國民を援け、まごころ篭めて働く人々を庇い、而して、邪心無き老若男女や、寄る辺無き遺族に啓示垂れ給うなど、皇室を尊崇し、公私を違えず、最も大義名分を明らかにする處に光被し給うのであります。 −『平成祭データ』− |
二上山の摂社を撮影して来たので掲載しておく。
二上山山頂第一の峰には「奥の御前」と称する日吉社(大山咋命)。
山頂から少し南の第二の峰には「前の御前」と称する悪王子社(地主神 )。
二上山山頂直下までは二上万葉ラインで車で行くことができるので、
そこから歩いて日吉社と悪王子社へ参拝。
二上山南麓の東側の二上院内には「院内の宮」と称する院内社(菊理媛命)。
院内社は二上射水神社から東へ700m。
二上山南麓の西側には諏訪社(建御名方命)。
諏訪社は二上射水神社から西へ1Km。
悪王子社の祭神は不詳だが、二上神の分身とされ、
昔、越中一円から十五歳以上の娘を人身御供として要求していた悪神。
天正天皇に派遣された行基が、お経を唱えると大蛇と化して出現し
さらにお経を唱えると降参して、山の守り神となることを約束したという。
二上山山頂 奥の御前 日吉社 | 前の御前 悪王子社 |
二上山前面、西の麓 諏訪社 | 二上院内 院内社 |