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奈豆美比咩神社
なずみひめじんじゃ
石川県羽咋郡志賀町安津見46−97甲

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式内社 能登國羽咋郡 奈豆美比咩神社 |
石川県志賀町にある。
能登道路西山I.C.の北東1Kmの安津見に鎮座。
安津見川に沿って走る道路から、
山方向へ100mほど登ると境内がある。
参道の入口が分からず、ゆっくりと道路を走りながら探すと、
路地奥の坂道の上に鳥居を発見。
車を路肩に止め、坂道を歩いて登る。
宮山と呼ばれる68mほどの低い山の麓に鎮座。
以前は山の上にあったらしいが、参詣不便にため、
麓に遷座したという。
『式内社調査報告』によると、山頂に旧本殿が残っているらしいが、
山頂までの道が分からなかったので、登っていない。
境内中央に拝殿。後方のやや高い位置に本殿がある。
社伝によると、文武天皇大宝元年(701)の鎮座。
明暦二年(1656)の由来明細によると、
祭神は天子の姫君で、
奈豆美姫・多林姫・矢居姫・倉多姫の四姫が、
桃の木船に乗って桃の浦(百浦)に着岸し、
多林姫は大坂村に留まったが、
奈豆美姫等は当地に鎮まったという。
「貴種流離譚」の一種を伝えている。
一般には、奈豆美との名前の類似からか、
安曇(安津見)の女神(豊玉姫命)が祭神と考えられている。
「奈豆美」の名が、安曇から変化したものか、
元々の地名「奈豆美」から安曇が付会されたものか。
中世には、鎮座地一帯が山城上賀茂社の社領となっており、
当社も鴨大明神と呼ばれていたらしい。
当社の祭礼で、安津見川対岸の「オタビ」と呼ばれる地に
渡御するものがある。
「オタビ」は、御旅所のことだろうか。
当社祭神が、初めて来着した場所と考えられている地。
また、『式内社調査報告』によると、
近年まで行なわれていた12月7日の甘酒祭は、
生贄を献った日といわれ、人身御供の祭と呼ばれていたという。
祭神が、何らかの犠牲として流されたという伝承と関係があるのだろうか。
社殿の扉や、案内の石碑に鱗紋が付いていた。
多分、これが神紋だろう。
参拝を終え、坂道の参道を歩いて戻る。
良い雰囲気の神社だが、宮山山頂が心残りだった。
参道 ![]() | 鳥居 ![]() | 社号標 ![]() |
境内 |
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拝殿 ![]() | 後方の本殿 ![]() |
奈豆美比咩神社の由緒
人々偉大なご神徳を称え、奈良時代文武天皇大宝元 年(七〇一)初秋 樹木繁茂古色蒼然とした、火の宮山の 頂上大御前に神社をご創建。陵と伝えられる円墳もある。 奈良・平安時代豪壮な七堂伽藍の別当寺をご造営、し かし戦国の乱世に遭遇悉く移転、廃絶。専念寺はその難 を逃れた寺院と伝承。本神社の別宮・摂社・末社は七社。 頻発する兵火により灰燼に帰し、少名彦那神社(細川家 薬師堂)一社のみとなる。 朝廷のご信任、武家のご崇敬厚く、平安時代元暦一年(一 一八四)高倉天皇より正四位下のご神位下賜。執権北条、 守護畠山、郡主土田、領主土方、藩主前田各氏の守護神、 祈願所と定め、社殿の営繕、社領や神祭具等を奉納。 江戸時代最も隆盛を極め、信者や参拝者増加。多数の 神主や社僧祭典を厳正に斎行。田中氏惣行司と称し代々 奉仕。社殿、鳥居の再建、神輿の新調。 明治初年村社、神饌幣帛料供進社指定。 昭和十一年山麓に新本殿ご造営、ご遷座慶賀祭盛大 に斎行。同二十一年氏子待望の郷社に昇格。 本神社ご創建以来長き歳月、氏子、崇敬者により護持、 ご神恩に感謝、御弥栄を祈願し、社殿の営繕、境内の整備、 神祭具の奉納等今に継承されている。 −境内石碑− |
