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姉倉比賣神社
あねくらひめじんじゃ
富山県富山市呉羽町小竹1813

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式内社 越中國婦負郡 姉倉比賣神社 |
富山市呉羽町にある。
呉羽駅のすぐ南の丘の上(前方後円墳)に鎮座。
呉羽の宮とも、大竹大明神ともよばれた神社。
丘の上に鎮座して、旧村社にしては、境内も広い。
姉倉比賣神社は、呉羽小竹と船倉山麓にある。
どちらも式内論社。『肯構泉達録』には、
船倉山の神・姉倉比賣命は、能登の伊須流伎比古と夫婦であったが、
伊須流伎比古は、能登媛と契りを交わしてしまった。
怒った姉倉比賣は、一山の石を投げ尽くして、能登媛を攻撃。
大乱となったため、大己貴命が越路へ赴き、乱を鎮圧。
姉倉比賣は小竹に流され、布を織って貢物とし、
婦女に紡織を教え、罪を償った。
このように、古くから両社が存在していた。
とにかく、紡織の神なのだ。
町も眠っている早朝の参拝のため、非常に静かな杜。
日中には、また違う様相になるのだろうか。
江戸時代の絵図では、丘の北東に参道がえがかれているらしいが、
現在は、南側が参道となっているようで、大きな鳥居をくぐり、
石段を登ると正面に社殿が鎮座している。
本殿は、3棟が並んだ形式。
向かって右が神明宮で、天照皇大神を祀り、
左が田中社で、大己貴命・武御名方主命を祀っている。
昔は、東・諏訪社、西・姉倉比賣神社、南・神明社、北・田中社と、
境内の四方に社殿があった。
階段下の鳥居 ![]() | 社号標と参道 ![]() |
階段上に境内 ![]() | 階段上の鳥居 ![]() |
境内 |
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拝殿 ![]() | 本殿の覆屋 ![]() |
本殿 |
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御祭神
御由緒
当社には、創建前史ともいうべき、うるわしい物語が伝えられて
いる。太古、越中に姉倉比賣という姿かたちの美しい女神様がおい
でになった。故あって、故郷の舟倉山から大竹野(今の呉羽町)の
地へお移りになり、以後その土地の人々と力を合わせて、開拓を進
められたのである。心やさしい比賣は、娘たちに機織りを教え、村
人たちには仕事に精を出すように励まされたので、誰もお慕いする
ようになった。ここは、いずこぞ大竹野よ 機を織りますわたくしは
明るい歌声が村中にこだまし、比賣が機を織っていると蜆ヶ森の
方から貝が蝶の姿になって飛んできて比賣の仕事を助けた。このよ
うにして大竹野は次第に開けて豊な村になっていったのである心もともに トンカラリ トンカラリ 当社は延喜式内社の一つで、越中の杜の中でも最も古い神社であ る。神社の創建の年代は明瞭ではないが、伝えによると第十一代垂 仁天皇の御代、越中に阿彦の乱が起こり、大若子命が鎮圧においで になり、当社御祭神の霊夢を受けられ、陣所の四方に祠を建て天神 地祇を祀り戦勝を祈願されたところ輝かしい勝利をおさめられた。 天平九年(七三七)詔があって当社に仏像経典を納め、南方に(現 在の源平山一体)一宇を建立し、神事に加わらせた。 應永三年(一三八六)当社神官が京都へ上り、二條殿のお引立てに より大宮司の位を賜った。 天文六年(一五三七)上杉謙信、越中最古の社と仰ぎ、翌天文七年 当社に願書を奉納し、社領二百石を寄進した。 寛文元年(一六六一)雷火のため社殿等すべて焼失。明治三年以降 神殿、拝殿等順次再建して現在に至る。 姉倉比賣の御神徳と婦負の郡名に因む古い由緒をもつ当社である −参道案内− |
【 姉倉比賣神社 (富山市呉羽町) 】
