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吉倉八幡宮
よしくらはちまんぐう
富山県富山市吉倉649
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式内社 越中國婦負郡 杉原神社 (参考) |
富山県富山市にある。
富山駅の南10Kmほどの吉倉に鎮座。
神通川の東岸、富山県総合運動公園の南西に境内がある。
境内入口は、道路に面して東向き。
境内は石の垣に囲まれ、入口に鳥居。
鳥居をくぐり境内に入ると左手に手水舎。
参道正面に社殿がある。
拝殿は瓦葺切妻造の平入り。後方の本殿は銅板葺きの神明造だ。
本殿の左手に石碑が祀られているが、刻まれている文字は読めなかった。
境内社だろうか。
参拝は10月後半、天気の良い日の昼。
太陽が真南にあり、影が西へ向かう参道を横切っている、そんな頃。
当社の社名は『平成祭データ』によると「八幡社」。
『富山県神社誌』や拝殿の扁額には「石清水 八幡宮」とあり、
地図には「吉倉八幡宮」とある。
ということで、当サイトでは他の八幡との区別が容易な、
「吉倉八幡宮」と記しておく。
八幡宮なので神紋は三つ巴かと思ったが、
拝殿の屋根には「蛇の目七曜紋」が付けられていた。
当社の神紋かどうか確認していないが、珍しいので載せておく。
崇神天皇の御代、大彦命が勅命を受けて北陸を視察し、
若狭国小浜に着かれた時、土地の長者である筍富貴・飯富貴の翁媼が
その土地の風土民俗を詳細に報告なさり、
海陸に精通した屈強な「浜子」十人を大彦命に随従させたという。
その後、大彦命は越中国に入り、婦負野一帯のの開拓に従事させたという。
大宝二年(702)その浜子たちが鎮守として、
婦負郡楡原の郷、岩住の杉原野の石窟に式内社・杉原神社が創立。
聖武天皇の御宇、天平五年(733)正一位杉原神社の神階を授与せられた。
その後、天和二年(1682)正月二十二日、
岩住村は浜子・寺家・黒田の三つに分離したため、
現在は各村に氏神が存在し、杉原神社の後継社となっている。
社伝によると、当社は大宝二年の杉原神社創建の後、三十三年目の年に当地に勧請され、
聖武天皇の天平六年、神官野上常陸守が京都石清水八幡宮の分霊を
吉倉の地に奉賽し、以来、吉倉、押上、福居南中田三ケ村の総社として崇敬された。
当社は杉原神社と石清水八幡宮を合わせ祀った古社なのだ。
ということで、式内社に指定された頃の杉原神社とは関係ないが、
そのオリジナルの後継社だと言えるだろう。
『富山県神社誌』には、当社の祭神は八幡系の四柱だけだが、
『平成祭データ』には、天照大神の名が併記されている。
天照大神が杉原神社としての祭神だろうか。
社頭 |
手水舎 | 境内 |
境内 |
拝殿 | 拝殿扁額 |
境内社か? | 本殿 |