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雄山神社 中宮祈願殿
おやまじんじゃ ちゅうぐうきがんでん
富山県中新川郡立山町芦峅寺2
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式内社 越中國新川郡 雄山神社 |
富山県立山町にある。
富山地方鉄道立山線と川を挟んで並行に走る道路わきに鎮座。
鳥居をくぐって境内に入ると、欝蒼と繁った巨木の林。
森林浴しながらの参拝で、気持ちが良い。
かなり広い境内に、主な社殿が3つ点在している。
まず、参道右手奥に、立山若宮。
そして中心に祈願殿があり、境内奥には立山大宮がある。
雄山神社は、立山雄山宮とも称し、
立山を神体とする三社の総称である。
立山山頂に峰本社、芦峅寺に中宮(祈願殿)、岩峅寺に前立社壇。
三社の中心に関して、岩峅の大宮と芦峅の中宮の両社僧間で、
争いがおこり、以後、峰本社を中心とする考えにまとまった。
『和漢三才図会』に、立山開山に関して以下のような記述がみえる。
文武天皇大宝元年、帝の夢に阿弥陀が出現し
「佐伯有若を越中の国司にすれば、国家安泰」と告げた。
帝はすぐに、有若に勅命。有若は嫡男・有頼とともに、越中国へ。
ある日、辰巳(東南)の方角から白鷹が飛来し、有若の拳に止まる。
有若は、これを愛育し、有頼は父に請うて鷹遊びへ出かける。
ところが、白鷹が逃げてしまい、探し求めたが見つからない。
そこへ、森尻の権現が示現して、
「辰巳の方角を尋ねるべし」と教える。
辰巳の山奥で、一人の老人に会う。
老人は、「白鷹は、いま横江にいる」と教え、
自分は「刀尾天神」であると告げる。
有頼が、さらに探し求め、奥へ行くと、熊に遭遇。
急いで熊を射ると、熊は逃げ出し、玉戸の窟へ。
有頼が、後を追って窟へ入ると、そこには阿弥陀の仏像が。
仏像の胸には、有頼の矢が刺さっており、血が流れていた。
そこで、阿弥陀は「我は衆生を救済するため汝を待っていた。
鷹は剣山刀尾天神、熊は我である。
はやく出家して当山を開くが良い」
境内入口 | 鳥居 | 境内参道 |
由緒書
総拝殿を祈願殿と称し境内二万 余坪あり樹林は富山県天然記 念物に指定せらる。 境内に於て草木を採り、殺生を 行い、無禮を為すことを固く禁 制す。 −社頭案内− |
境内の若宮は、岩の上に鎮座しており、別名・岩の宮とも呼ぶ。
境内最古の建物で、承久二年の造営。
祈願殿と若宮は西面、つまり参拝者は東の立山山頂に向って参拝する。
しかし、境内奥の大宮は南向きで、社地も南向き。
つまり、境内の参道は最奥の大宮へ向って延びている。
立山神と雄山神は別物であるという説もあるが、
別物であるとすると、雄山神は、最奥の大宮であり、祈願殿と若宮は立山神。
山岳修験道の立山と、古代神道の雄山が、当地で混在・融合しているという見方も出来る。
また、片貝川の川中島に鎮座していた式内・布勢神社が、社地流出のため、
若宮の相殿に祀られているとの説がある。
立山大宮 | 立山若宮 |
立山大宮 | 立山若宮 |
立山若宮
また霊峰立山登拝の諸人は必ず参拝 するを例とした。 立山大宮
−境内案内− |
雄山神社は神仏習合の神社で、
中宮の祈願殿は、明治までは大講堂と呼ばれていたもの。
背後の祠には根本中宮と書かれた額が掲げられている。
境内中央には立山開山慈興上人墳墓があり、開山堂があったが、
国幣社昇格の際に、仏堂的施設は排除された。
一時、再建されたが台風で破壊された。
祈願殿 | 祈願殿横から |
立山開山御廟 |
祈願殿本殿 | 宝童社と神明社 |
祈願殿
明治維新まで芦峅大講堂
と称したが、改新後祈願殿
と称し、諸祭儀、御神楽等
と修する所なり。本殿には、雄山の大神を 始め、立山々中三十六社の 神々を合祀す。 −境内案内− 雄山神社御由緒
社伝によれば、文武天皇の大宝元年(七〇一年)景行天皇の後裔越中国司佐伯宿禰有若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山である。古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大宮、有頼を祀る若宮等がある。 当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもあり清和天皇貞観五年正五位上に宇多天皇寛平元年に従四位下に昇叙せられたことが、三代実録及び日本紀略に見えている。また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正十一年には佐々成政がそれぞれ本殿の改修をしている。明治六年には県社となり、昭和十五年に皇紀二千六百年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国幣小社に列せられた。 −『平成祭データ』− |
中宮祈願殿の周囲には多くの寺堂が立ち並んでいたが
明治期の廃仏毀釈によって、多くは破壊された。
中宮祈願殿から東へ少し進んで南へ下りた場所に
立山博物館展示館などがあり、
遥望館という建物の前に四角形の舞台のようなものがある。
これが「」で、の趾。
基壇の前に石の手水鉢が置かれており、
と刻まれている。
立山は神仏分離まで女人禁制で、禁をおかして山に登った女性は
岩石や樹木に化せられたといい、美女平の美女杉などはその変わり果てた姿だという。
は女人堂で、ここまでは女性の参拝も許された。
ここに祀られた(姥神)は万物の母神で、
死後は冥界の主催神となったといい、伊邪那美命のような神。
このを、男神である立山神に対して、女神である新川の神とする説があり
『三代実録』に貞観九年二月二十七日に神階を受けた国史見在社である
新川神社として復古することを願い出たが認められなかったらしい。
女偏に田を三つ書くこのの文字は、
田畑を感がいする水源の女神であるとも、
田は母を意味し、万物の母たる三女神であるとも。
手水鉢 |