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荊波神社
うばらじんじゃ
富山県南砺市岩木5024
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式内社 越中國礪波郡 荊波神社 |
富山県南砺市(旧福光町)にある。
城端線・東石黒駅の西2Kmほどの岩木に鎮座。
285号線を進み、小矢部川を渡って、少し北へ入った場所、
小矢部川左岸の山麓に境内がある。
境内入口は南東向き。
社前の道路が少し広くなっているので、そこに車を止めて参拝開始。
数段の階段を登ると鳥居があり、鳥居をくぐると広い、というか奥深い境内。
参道を進むと瓦葺の社殿があるが、この社殿は拝殿と幣殿。
当社の本殿は奥宮・奥の院とも呼ばれ、拝殿の後方、約200mほどの場所にある。
拝殿の右手から雑草の茂った山道を登って行くと、
木製の鳥居が立っており、切妻造の本殿がポツンと鎮座している。
念のため、本殿の扁額を確認すると「荊波神社」と書かれていた。
その本殿の後方約50mの場所に「利波臣志瑠志古墳」という塚がある。
利波臣志瑠志とは、当社祭神・日子刺肩別命を祖とする古代の当地の豪族。
以前は、その前方後円墳だと考えられていたが、
最近の調査によって古墳ではなく経塚であると改められ、
「記塚」と呼ばれるようになったらしい。
創祀年代は不詳。
式内社・荊波神社の論社とされている古社。
日子刺肩別命を祖とする当地開拓の祖である利波臣志留志が、
当社の創建に関ったと考えられている。
江戸時代には、荊波神社冨士権現とも称され、山岳信仰の広がりにより、
多くの修験道の山伏を擁して、利波の臣に連なる石黒郷の総社として崇敬された神社。
中鳥居野という地には、昔、中鳥居があったと伝えられ、
「荊波領」と 刻まれた礎石も発掘された。
また、小矢部川を隔てた桐木村田畠字荊波島は大鳥居の跡という。
配祀の綿津見神(底津海積命、中津海積命、表津海積命)は
河川を鎮める神として祀られているらしいが、
『富山県神社誌』などには、底筒男命、中筒男命、表筒男命と記され、
住吉三神と混同されているようだ。
明治になって、冨士権現の称をやめて荊波神社とし、
明治四十一年、村内の八幡社および境内社の諏訪神社を合祀した。
当社の神紋について。
神馬像や社殿の屋根に、植物の葉の紋が付いていた。
参拝時には、梶紋だと思っていたが、撮影した写真をよく見ると、
梶紋とは葉の様子がちょっと違う。
ひょっとすると、荊(茨)の葉を図案化した紋なのだろうか。
個人的には、そうであって欲しいと思うが、手持ちの資料にも情報はないので、
結局、神紋に関しては未確認なのだ。
参拝を終え、社前に停めていた車に乗った時、
車の脇に立っていた「熊出没注意」と書かれた看板が目に入った。
何も知らずに、塚までの山道を登っていたんだな。
これからは、もっと周辺の看板などに注意して参拝しよう。
社頭 |
鳥居 | 境内 |
境内 |
神馬像 | 梶紋?荊紋? |
境内社殿 |
拝殿 | 拝殿幣殿を上から |
本殿への参道 | 鳥居 |
本殿(奥宮) |
本殿扁額 | 本殿横から |
利波臣志留志古墳(記塚) |
荊波神社由緒
−境内由緒書を一部修正しました− 南砺市指定文化財 史跡 記塚と出土品
大正期には、奈良東大寺の盧舎那仏建立に尽力した豪族、利波臣志瑠志の 前方後円墳であるといわれ、昭和三四年に「志瑠志の古墳と発掘物」として 文化財指定された。しかし、平成五年の測量調査の結果から、古墳の可能性は 低いことがわかり、経塚として名称変更を行った。出土品は珠洲焼の壷と 片口鉢、刀子、平安時代後期の鏡、銅板製の経筒等で、珠洲焼などの年代から 一二世紀中ごろと推定され、県下でも古い経塚埋納品と考えられている。 −境内案内板− |