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奥津比咩神社
おきつひめじんじゃ
石川県輪島市舳倉島高見2
沖つ島 いゆき渡りて 潜くちふ 鰒珠もが 包みてやらむ
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式内社 能登國鳳至郡 奥津比咩神社 |
能登半島北部・輪島の沖約50Kmに浮かぶ舳倉島に鎮座。
舳倉島へは、輪島港から、一日一往復の定期船が出ている。
午前9時に輪島を出て、片道約1時間30分の船旅。
小さな高速定期船なので、かなり揺れる。
周囲約7Km、標高13mしかない「絶海の孤島」。
ゆっくり歩いても、2時間あれば、一周できるそんな小島だ。
当日は、天気が良く、一片の雲も無い青空。
海は蒼く、波も静かだった。
舳倉島は、大友家持が万葉集に「沖つ島」と詠った島。
沖つ島 いゆき渡りて 潜くちふ 鰒珠もが 包みてやらむ
今昔物語では、「猫の島」と記されている。
今は昔、加賀の国に七人の下衆がおり、釣を生業としていた。 ある日、沖に出たところで嵐にあい、ある島に流れ着いた。 その島で、20歳ほどの男と出会い、酒や食事を御馳走になる。 男は、 「この島の沖に、もう一つ島がある」 「その島の主が、私を殺して、この島を乗っ取ろうとしている」 「どうか、手助けして欲しい」 七人の下衆が、翌朝見てみると、 沖から大ムカデがやって来て、大蛇と格闘。 危うくなった大蛇を助け、大ムカデを退治した。 男は、お礼として、この島に住むことを勧め、 島から出る時は、男が風を吹かせ、 島へ戻る時は、加賀の熊田宮を祭れば、風が吹くと告げた。 そこで、七人の下衆は七艘の船で、この島に移り住んだといい、 島の名を「猫の島」という。 |
大蛇(龍)を助けて大ムカデを退治する話は、俵藤汰で有名な話。
その舞台は琵琶湖だが、二荒山大神(大蛇)と赤城山大神(ムカデ)の聖戦など、
各地に同じようなモチーフの話がある。
「七人の下衆」の七という数字が、ちょっと気になるところ。
舳倉島と輪島の中間に、七つ島と呼ばれる島々があり、
また、舳倉島には、奥津比咩神社を大宮として、
他に七つの小宮が鎮座している。
舳倉島港から、海沿いの道を南西に歩くと、
草叢の上に、大きな鳥居が見えてくる。
石がゴロゴロと転がって歩きにくい参道の奥に、
民家のようなイメージの社殿が見える。
拝殿の後方には、石を積み上げた垣の中に本殿が鎮座。
社殿の右側には、大和田神社(素戔嗚命)が鎮座している。
通称は、西宮(にしのみや)。
江戸時代に、島の北東部にある伊勢神社(天照大神)の地から、
島の南西部へ遷座したために、西宮と呼ばれるのだろう。
創祀年代は不詳だが、伝承によると、
筑前鐘ケ崎の海人が、能登半島沿岸で季節的漁業に従事し、
その後、輪島付近に居留するようになったという。
そこで、故郷の宗像同様、沖の島に祀ったのが始まりという。
あるいは、舳倉島は、高麗や任那の使者を迎える島として、
大陸航路の要衝に位置しており、宗像同様に、国家神を祀ったとも。
海岸線に鳥居と社号標が見える |
社号標 | 鳥居 | 海に面している |
境内社殿 |
狛犬 | 本殿 | 右横に大和田神社 |
奥津比咩神社由緒 奥津比咩神社の本社は海士町所属の舳倉島に鎮座し田心姫命を祀り延喜式内の古社として知られる。 能登国式内等旧社記には「奥津比咩神社式内一座輪島の海上舳倉島に鎮座西宮と称す或は舳倉島権現と云ふ。 舳倉島の旧名は奥津島祭神は奥津媛命と記されている。 中世の末期に筑前国鐘ケ崎(現福岡県玄海町)より能登国に渡来した海士又兵衛以下十三名がやがて舳倉島を根拠として漁業を営むようになって深く当社を崇敬し海士の故郷宗像大社の信仰をうけて産土神と仰ぐようになった。 昭和五十年漁業の近代化多様化により舳倉の宮に対して海士町の宮を現在地に建立して里宮とし、舳倉島の本社・末社及び七つ島の神々の御分霊をも奉祀することとした。 −『平成祭データ』− 奥津比咩神社舳倉島の総本社で、鳳至郡に九 社あった延喜式内社の一つである。 江戸時代の初期に島内伊勢神社の 地から現在地に遷座されたといわ れている。俗に「西ノ宮」とか「舳倉 権現」と尊称され、田心姫命を祭っ ている。 奈良時代に国守大友家持卿が能登を巡行され た時の長歌が万葉集に載っており、その中に「沖 つ島 い行き渡りて 潜くちふ 鰒珠もが 包みて遣 らむ」と詠まれている。 奥津比咩神社の横には大和田神社があり、西組と大西組が管理している。 ■輪島市指定有形文化財 干石船渡海船の模型と板図 昭和38年9月23日指定 ■舳倉島の祭祀資料 平成2年8月22日指定 −舳倉島案内より− |
島の西側には民家がなく、
幾つかの小祠が点在し、一本の道が通っているだけ。
中央部の湾状になった場所に、
八坂神社(素戔嗚命)と金比羅神社(大物主命)が鎮座。
どちらも石積垣に囲まれている。
周囲の海岸には、石を積んだ築山、ケルンが多く見られる。
竜神供養のために積まれた石だが、
一説には、標高13mと低い島のため、船から目立たないので、
少しでも高く積んで、目印としたともいわれている。
簡易灯台ということだろうか。ちょっと無理があるような気がする。
築山(ケルン) | ケルンと灯台 | 築山(ケルン) |
西側海岸に点在する神社 金比羅神社の周囲、左奥に八坂神社の屋根が見える |
八坂神社 | 金比羅神社 |
金比羅神社と八坂神社 舳倉島の北側中央に建っている神社で、 前方が金比羅神社、西側が八坂神社で ある。それぞれ小岩組と出村組が管理 している。島にある七つの小宮の一つ である。前者は航海安全、後者は防疫神 として心身の健康を祈願する島民のよ りどころである。二つの神社の問には「深 湾洞遺跡」、その北西には「シラスナ遺跡」 が点在して、弥生、古墳、奈良平安の複 合遺跡ともいわれている。 また、舳倉島で目に付くのが石積み(ケルン)の多さである。島内には70あま りのケルンがあり、石を積むことが竜神様の供養となってエゴ草がたくさん採 れるようになると言い伝えられている。また、江戸時代に起きた海難事故のあと、 低い島を少しでも高く見せて海上からの標識になるよう積み上げたともいう。 アワビ採取の潜水場所を覚える「山だめ」としても利用されている。無数のケ ルンがそぴえる光景は舳倉島ならではの情緒を醸し出している。 ※ケルンは単なる石積みではなく、貴重な歴史的財産である。安易に手を触 れたり、石を動かしたりしないこと。 −舳倉島案内より− |
島の中央部西側に、周囲180mの池、竜神池あり、
池の畔に小祠・無他神社(龍神大神)、傍らの丘の上に観音堂がある。
竜神池の水は枯れることがなく、海底は竜宮城へ続いているという。
無他神社が「遥拝所」となっているのは、竜宮を本社と見ているからだろうか。
龍神池 左側畔に小祠、左隅に小さく金比羅神社の屋根 |
龍神池畔の無他神社遥拝所 | 観音堂 |
竜神池と観音堂 藩政末期に一旭上人という僧が 島にやって来て、毎晩観音堂に島民 を集めて説教をしていた。ところが、 いつも末座に若い女がじっと聞きい っているので、ある晩上人がたずね ると、女は「私はこの池に棲む竜な のです。難破船の錨の毒にあたって 死んだのですが、未だに成仏できずにいます。どう か助けてください。」と涙を流してたのむのだった。 そこで翌朝、島民が池の水をくみ上げたところ、 池の底から大小二体の骨が見つかった。骨は樽四 杯分にもなった。 この母子の竜骨は法蔵寺分院に葬られた。人々 は父親の竜が現在も近くの海に生息していると考え、 神として祭って無他神社とした。 この竜神池は周囲約180mあり、底が竜宮城に 通じていて決して水が枯れることは無いといわれている。 観昔堂は中北組と上北組が管理している。 −舳倉島案内より− |
島の北部には、恵比須神社(言代主神)が岩の上に鎮座。
島の東側には、奥津比咩神社の元の鎮座地・伊勢神社。
港の中の小島には、弁天社(市杵嶋姫命)。
恵比須神社 | 伊勢神社 | 伊勢神社社殿 |
港に浮かぶ弁天社 | ニューへぐら。かなり揺れる。 |
恵比須神社 島の北東に位置し、漁業繁栄の 祈願所で、恵比須大神を祭っている。 島にある七つの小宮の一つで、恵 比須組と大北組が管理している。 舳倉島へ一斉渡島の行っていた 頃は、島へ着くとまず目分の所管 の小宮へ組の全員が集まって今年 の稼業の安全祈願を行い、お神酒五升を飲んで夜を明かした。この行 事を「ゴショウヅイヤ」(五升通夜)と呼んでいる。 そして、それが済むと島民全員が総本社の奥津比咩神社に集まり、 区長が主宰して一年間のいろいろな決まり事を相談する総会を開き、 最後に全員で飲み明かしたといわれる。これが「ナカマヅイヤ」(仲問 通夜)である。また一年の稼業を終えて一斉離島する時はその逆で「レ イヅイヤ」(礼通夜)が行われていた。 −舳倉島案内より− 伊勢神社 「やしろ様」とも呼ばれる神社で、 島に鎮座する七つの小宮の一つで ある。昔はここに奥津比咩神社が あり、島全体の総氏神であったと いわれている。 やがて、奥津比咩神社が島の南 西に移転してからは、この社が伊 勢信仰の中心となり、8月の例大祭が海士町で行われるようになるまでは、 神輿の御仮屋としてにぎわってきた。 境内の右手に自生する「タプ」の木は、舳倉島で唯一の大木で、神の 依代として昔から島民の尊崇を受けてきた。 ■輪島市指定天然記念物 やしろ様のタプの木 昭和58年6月27日指定 全長:約12.6m/根周り:約4.8m/ 推定樹齢:約300年 −舳倉島案内より− |