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赤城神社
あかぎじんじゃ
群馬県前橋市三夜沢町114
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群馬県前橋市(旧宮城村)にある。
赤城山の南麓の三夜沢に鎮座。
353号線から北上した突き当たりに境内がある。
赤城山へは、当社へ向かう道の途中から、東へ入って、
ウネウネとした道を登っていく。
境内は木々が茂って、シットリとした空気に満ちている。
有名な御神水でもあるのだろうか、いつ訪れても、水タンクを持った方が並んでいる。
境内に入って右手に神池。
その側に、神代文字の碑がある。
拝殿の後方、一段高く中門があり、垣の中に本殿。
本殿の中には、内宮殿があるらしい。
中門の前には、俵藤太が献木したと伝えられるタワラ杉が聳えている。
俵藤太といえば、竜神を助けて大ムカデを弓で退治した英雄だが。
赤城山大神(上野)と二荒山大神(下野)の神戦では、
赤城山がムカデ、二荒山が蛇となり、
結果、ムカデの赤城山大神が、弓で傷つき負けている。
が、これは二荒山側に伝わる伝承にすぎない。
俵藤太は、上野・下野両国の英雄なのだ。
社伝によると、御諸別命、日本武尊、あるいは履中天皇の御宇の創建。
式内・赤城神社の論社。
論社は、山頂大沼の畔の赤城神社、中腹の当社、
そして、前橋市にある二宮赤城神社である。
赤城大明神は、江戸時代、三所明神とも称されていた。
三所とは、山頂の大沼(千手観音菩薩)、小沼(虚空蔵菩薩)、地蔵岳(地蔵菩薩)。
元は、大沼・小沼への信仰から発した西宮と、地蔵岳信仰の東宮の、
東西両宮が並び祀られていたが、現在は一社となっている。
現在の社殿は、明治になって東宮の地に造営されたもので、
西宮の跡地には、鳥居の沓石一対が残っているとか。
当社には社地変遷の伝承があり、『山吹日記』に
「もとの宮ゐありし所はいま本三夜澤と呼て、
是より一里はかり東のかたにあり」とあるらしく
粕川町中之沢の俗称「御殿」と呼ばれる地か、
その北の宇通遺跡付近から遷座したとする説がある。
また、宇通遺跡は十世紀頃の寺院遺跡であり、
それ以前は、二宮赤城神社の地にあったという説もある。
さらに、これらの社地変遷は西宮が移動したものであるという。
赤城大明神は、上野国の二之宮であるが、
伝説では、本来、一之宮であったが、
財の君である、貫前の女神を他国へ渡してはならないと、
女神に一之宮を譲ったという。
さらに、赤城神が絹機を織っていて絹笳が不足したので、
貫前の女神から借りて織り上げたという。
赤城神社の分社は、群馬県内に118社。全国では334社を数えるという。
当社から、北東に1Km強の位置に櫃石という磐座がある。
興味がある方は、一度訪れてみるのも良いかもしれない。
ただし、道路から2Kmほどの山道を歩くらしいので僕は断念した。
木々が多く、空気は湿気が多いような印象だ。
拝殿の左右に、本殿への石段があるが、苔ですべるので注意。
階段を上って、中門の前を見ると、タワラ杉が立派。
境内入口の鳥居 | 参道 | 境内 |
境内 |
神楽殿 | 拝殿 |
拝殿 |
拝殿後方に本殿 | 中門前のタワラ杉 | 中門 |
木々からの湿気が霧状に蒸発し、木漏れ日を、淡い光に変える。
なんとも、神々しい姿に、しばし見とれる。
本殿 |
群馬県指定天然記念物
三夜沢赤城神社のたわら杉
昭和四八年四月二五日指定
赤城神社の境内には杉の大木が多数あり、ヒノキやアスナロ
などもみられます。中でも目を引くのが中門南側とその西隣に
ある三本の杉の大木「たわら杉」です。東側のものから、目通
り周五・一m、六・一m、四・七m、根元周六・〇m、九・六
m、五・六mとなっており、樹高は各々約六〇mです。これら
三本の杉は群馬県内でも最大級のものといえるでしょう。たわら杉には、「藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野 国府(前橋市)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に 献木したものである」という伝説が伝えられています。藤原秀 郷は藤原鎌足八代の後裔と伝えられ、平将門の乱を平定し、武 蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめたとされる平安時代の武将 ですが、その実像はあまりわかっていません。 一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶 湖の龍神を助けた、弓矢の名手にして神仏への崇敬篤い英雄と して描く御伽草子「俵藤太物語」が有名です。鎌倉時代、上野 国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、 幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。 彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷 がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍 を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城 神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫 前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっているこ とから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共 通する意識だったのかもしれません。 ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤 城神がムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷とムカ デと赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついて きた様子がうかがえます。このように、「たわら杉」とその伝 説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、 赤城神社に対する時代と地域を越えた篤い信仰を象徴していま す。 −境内案内より− |
本殿の左手に石祠が一つある。
側面に文字が刻まれているがよく読めなかったが、
明治に火災で拝殿・神楽殿が焼失したので「なんとかかんとか」とあった。
境内の左手、林の中に硯石。
さらに左(西)に行くと、人工的な丸い穴の石が地面に埋まっていた。
これが、西宮の跡地の鳥居の沓石だろうか。
西宮跡の鳥居沓石か? | 本殿左手の石祠 |
硯石 |
参道脇に神代文字を刻んだ石がある。
面白そうなので掲載しておく。
境内の神代文字の碑 |
神代文字 | 案内板の神代文字 |
赤城神社由緒略記
勢多郡宮城村大字三夜澤鎮座
−社前案内板より− 関東の大平野の北に並んでいる山々の最前列にそびえているのが赤城山であり、その何面の中腹に群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢の地がある。赤城神社の鎮座地である。 赤城山中央、荒山の下方山麓の景勝の地にあたる。海抜五七〇メートルである。 赤城山は背後の諸山を従えて、長く裾を引き、雄然とあたかも王者のように大平野にのぞんでいる。頂には黒桧岳、駒ケ岳、地蔵岳、荒山、鍋割等の峰が東から西にかけて見えていて王冠のようである。その間に大沼、小沼があり、小沼からは粕川が流れ出して、滝や渓谷をつくり、裾野をうるおし、また粕川、荒砥川とともに、平野の潅がいに利用されている。その流域には御分社が多い。平坦地では赤城山を「御山」(おやま)とよんでいる。神山と仰ぎ尊んでいたものである。 神社のうしろの荒山から下だってくる尾根の端には神跡「ひつ石」がある。古代祭シの遺跡で、ここからは関東平野が一望のうちにおさめられ、その間を流れる利根川の末は雲煙の彼方太平洋をしのばせ、南方はるかに秩父山脈を越えて富士の霊峰を望むことができる。 赤城神社の名が歴史書に見え始めたのは、今からおよそ一千百年余り前の仁明天皇の承和六年(西紀八三九年)のことである。その時に従五位下の神位を授けられているので、それ以前に既に朝廷から祭祀を受けられ、官社となっていたのである。延喜式の神名帳では、名神、大社に列せられ、神位は次第に昇叙されて、九条家本廷喜式裏文書には正一位と記してある。 このように古くから著名な神であったのは、古代の上毛野国(群馬県全体)を支配していた上毛野君という一族がまつっていたからである。上毛野君は豊城入彦命の子孫と伝えられていて、上毛野国の国造となり、東国を治め、蝦夷を同化させることを任務としていた。日本書記に、「崇神天皇は豊城、活目の二皇子の夢を占って、後嗣を決めようとされた。二皇子は体を清め、神に祈って夢をみた。兄の豊城命の夢は御諸山に登って東に向かって八たび槍を振り、八たび刀を振ったというのであり、弟の活目尊の夢は御諸山に登って縄を四方に張り、粟を食う雀を追い払ったというのである。天皇は夢占いをして、兄は東国を治め、弟は天皇の位を継ぐことを決められた。豊城命は東国を治めることになり、上毛野君、下毛野国の始祖である。」という意味のことが記してあり、また同書に「景行天皇は豊城命の孫彦狭島王を東山道十五国の都督に任命された。ところが王は春日の穴昨邑というところで病死した。その時東国の人々は王が任地においでにならないことを悲しんで、王の屍をとって上野国に葬ったとあり」次いで「景行天皇は彦狭島王の子御諸別王に父の業を継いで、東国を治めしめられた。蝦夷の首領が降参して、東国は永く平和になり御諸別王の子孫が後までも栄えている。」という意味のこともしるしている。 つまり上毛野君の氏族が東国を開拓して、東北地方へまで発展していたので、その基地である上毛野国に赤城神をまつったもので、そこで平野に臨んで、他の山々を後ろに従えたこの赤城山の神、小沼から流れでる粕川が潅がいに利用されたのでその農業の神とが、赤城神の起源と考えられる。 鎌倉時代になると、三代将軍源実朝の歌に、「上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」とあるように、将軍をはじめ武将たちが崇敬したばかりでなく、赤城神社は上野国の二宮と呼ばれて、一般の人々の信仰のまとになった。神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には「もと赤城神は一宮であったが、機を織っている時に、「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり自分は二宮になった。」ということが見えている。その頃は一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰をあつめていたから、このような伝説が起こったのである。 神道集が作られた頃は、本地垂迹説によって、神と仏とが一つにして拝まれていたので、赤城神ははじめ小沼の神に虚空蔵、大沼の神に千手観音があてられ、吉野時代頃には地蔵が加わって三神とされた。小沼及び大沼の神は粕川の上流の勢多郡粕川村大字室沢字御殿(元三夜沢)にまつられ、後に粕川の上流の神社が現在の三夜沢の地に移り、西宮と呼ばれ、今までこの三夜沢にあった神社は東宮となり、江戸時代には東西両宮が並んでいた。このように一地に神社が移されたのは、戦国の世と呼ばれる頃であろう。 しかし、戦国の頃には各武将の信仰が特に篤く、上杉、北条、武田の三氏をはじめ、由良、長野、大胡などの国内の諸将士の願文や寄進状等が神社に蔵されている。殊に由良成繁奉納の宮殿はその寄進銘が扉にあって珍しいものである。また大胡氏はまず大胡に、次いで江戸に移ると牛込に赤城神社を分祀した。大胡氏の後に大胡城主となった牧野氏も土地を寄進している。 参道は大胡(中央)、市之関(西)、苗ケ島(東)の三方から一の鳥居に集まっている。年代記には慶長年間に各参道に松を植えたとあって、現在中央の松並木のみが残っている。稀な松並木であり、由緒の明らかなものであるから、特に保存されるべきものである。現在の社殿は明治初年に東宮の位置に建て替えられて、東西両宮を併せて一社とされた。昭和十七年に国幣中社に昇格の内定があったので、社域整備に着手したが、終戦と共に官祭が消滅し、それ以後は専ら氏子及び信仰者によって維持されてきている。 分社は赤城山南麓地は勿論関東平野の全般から、新潟、福島、宮城の諸県に及んでいる。現在のもののみで、群馬県に一一八社、埼玉県に二十三社、栃木県に九社、茨城県に十社、新潟県に十三社、福島県に十一社、その他を合せて計一九一社であり、合併または廃社を合せると三三四社に達している。四季を通じて、各分社からの参拝も多い。 −『平成祭データ』− |