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白山神社
はくさんじんじゃ
東京都文京区白山5−31−26
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東京都文京区にある。
地下鉄三田線・白山駅の西200mほどの白山に鎮座。
鎮座地・白山は、昔は白山前町と呼ばれており
白山権現(当社)の門前町として発展した町らしい。
境内・社殿は南向きなので、表参道は南側参道なのだと思うが
僕は根津神社から歩いて来たので、東参道から参拝。
鳥居をくぐり階段を上ると境内。
参道脇に境内社・福受稲荷神社があるが、社前に猫がいた。
境内に入ると、瓦葺の社殿。
拝殿の後方に、入母屋造の美しい本殿。
参拝中にも、通勤・通学の人達が何人も境内を通過。
地下鉄への近道として利用されているのかもしれない。
その中の何人かは、拝殿前で参拝していくようで
毎日の通勤で、神社にお参りしているんだなぁ、
などと考えながらの参拝。
天気が良くて、気持ちの良い朝。
この日の午後、日本中を震撼させる大震災が発生するとは。
創祀年代は不詳。社伝によると、
天暦二年(948)九月、加賀一宮白山比咩神社を
武蔵国豊島郡元岡本と号して、今の本郷元町に勧請したのが当社の起源。
建武四年(1338)足利尊氏公により、
国家平安御祈願所に命ぜられ、永百貫文之御判物を賜った。
元和二年(1616)徳川秀忠公の命により、
小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座。
小石川の名は、加賀国石川郡より勧請されたことによるらしい。
慶安四年(1651)徳川家綱公の用地となったため、
明暦元年(1655)現社地に遷座した。
この時、小石川白山御殿には白山社と氷川社、女体社の三社があったが、
白山社は当地へ、氷川社は西へ遷され、女体社は行方知れずという。
後に、五代将軍綱吉公と生母桂昌院の信仰を受け、
元禄年中までは、本社摂社末社寄附神器宝庫から神官宅まで
幕府より修繕を加えられ神社であった。
元禄十六年(1703)十一月二十九日、火災により焼失。
享保三年(1719)三月、時再び火災にあい、
後、数十年間本殿のみが建立された状態であったが
明治三十二年拝殿建設、昭和八年改修して
昭和九年九月十八日盛大に正遷座大祭が施行された。
祭神は、白山比咩神社と同じ、
菊理比咩命、伊弉諾命、伊弉冉命。
資料によっては、伊弉諾命の代わりに泉道守を祭神に加えるものもある。
明治になって、天皇御東幸にあたり准勅祭社となり
勅使を遣わされて国家安泰の祈願を修め給うた。
なお、当時准勅祭社に指定された十社は、
現在、東京十社と称されている。
また、紫陽花の名所として有名らしく
毎年6月には紫陽花祭が開催されるようだ。
神紋は白山比咩神社と同じ三子持亀甲瓜花紋。
拝殿の左手に、関東松尾神社が祀られており
南参道の西側に幾つかの境内社が並んでいる。
まず、境内社としては珍しく八幡造の社殿を持つ摂社・八幡神社。
八幡神社の北に、名前を確認していない小祠。
さらに、富士浅間社・稲荷社・三峯社・玉津島社・天満天神社・
山王社・住吉社を合祀した境内社がある。
資料に、境内社として富士神社が記されており
この社が富士神社だろうと思っていたが、
地図を見ると、本社後方に浅間神社という小社があるようで
その浅間神社が富士神社かもしれないが、残念ながら見ていない。
東参道の鳥居 |
参道の福受稲荷神社 | 手水舎 |
境内 |
南参道 | 境内 |
社殿 |
拝殿 | 本殿 |
白旗桜 |
松尾神社 | 八幡造の八幡神社 |
社名未確認 | 七社合祀の境内社 |
境内の木 |
白山神社由緒 当社人皇六十二代村上天皇天暦二年(九四八)九月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元岡本と号して今の本郷元町に奉勧請す。建武四年(一三三八年)足利尊氏公により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和二年(一六一六年)徳川秀忠公の命により小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安四年(一六五一年)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(一六五五年)現社地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍綱吉公と生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社末社寄附神器宝庫は勿論神官宅まで旧幕府より修繕を加えられる。寛文六年(一六六七年)九月二十九日祭礼賑々しく執行致すべき旨申し渡され、御戸帳並びに祭具等寄附あり、元禄三年(一六九〇年)正月二十九日旧幕府より社領三拾石寄附之あり、右朱印元禄六年(一六九三年)九月二十九日戸田能登守相渡さる。元禄十六年(一七〇三年)十一月二十九日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門等まで悉く類焼し、宝永元年(一七〇四年)六月十四日加藤越中守掛にて仮殿手当として金五百両桧五千挺寄附あり再建せられたるも享保三年(一七一九年)三月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治三十二年拝殿建設、昭和八年改修し同九年九月十八日盛大に正遷座大祭施行す。 (なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり) 当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)東京十社の一つである。 八幡神社由緒 当社は人皇七十代後冷泉帝永承六年(一〇五一年)四月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義、御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり。然るに敵将此の辺に兵を伏駒を込数千の薪を集め焼亡さんと計るとき、両大将当社前の桜木に御旗を立て岩清水八幡宮を奉勧請御祈誓ありて後、一戦に敵を討捕し討伐後ここに感謝の意をもって八幡神社を創建せらる。 白山神社の境内の地主神に在りて御神徳顕著にして崇敬者多し。昭和五十年老朽化せし社殿改修し同年十二月十日遷座祭施行す(なお白山神社氏子中の協賛による) 御神木 旗桜 この桜木は旗桜と言い、八幡太郎義家御旗を立給いて祈願せられた時の桜木にて、(古木は社務所に)若木を育てたものであり、花の真に旗の形なる花弁ある名花なり。 関東松尾神社由緒 当社は関東松尾神社と称し、江戸時代白山神社の境内地に京都嵐松尾大社の御分霊を奉勧請す。昭和二十八年六月酒類関係業者により、老朽化せし御社を改修し盛大に遷座祭を施行す。本社なる松尾大社は大宝元年京都嵐山北松尾山に鎮座せられ、京都の大社にて旧制 秦氏神 官幣大社である。この神酒造の神として世に著れ、酒蔵札にも『奉祭祀 常磐堅 松尾大明神 乃利乃利 磐夜守日護幸賜』とあり、酒造家の尊信が頗る厚く、現に遠近より酒造・酒販業者の餐する者甚だ多い。この勧請社なる当社も酒類関係業者の尊崇厚く、毎年新嘗月なる十一月に吉日を選んで大祭が厳修せられている。 −『平成祭データ』− |