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莫越山神社
なこしやまじんじゃ
千葉県南房総市沓見253
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式内社 安房國朝夷郡 莫越山神社 |
千葉県南房総市(旧丸山町)沓見にある。
JR南原駅の西3Km。丸山川の西岸。
128号線から少し北上した丘の上に鎮座。
128号線からも、その丘がはっきり確認できる。
丘の東麓に鳥居が立ち、階段を上ると静かな境内。
朝の4時前に千葉のホテルを出たので、参拝は6時頃か。
曇天で、やや暗かったが、いかにも神域という神社は気持ちが良い。
境内の社前には立派な木が枝を延ばしていた。
128号線方向から見た社域の丘 |
社伝によると、神武天皇元年の創立。
天富命が安房開拓で当地に来た時に、
随行してきた天小民命、御道命が、祖神を祀ったのがはじまり。
2柱の祭神、手置帆負命・彦狹知命を、当社では
小屋安大神と称しているらしい。
手置帆負命・彦狹知命は上棟式で祀られる神々。
小屋の平安と解するとわかりやすい。
当社から北へ5Kmほどの丸山川上流・宮下にも、
式内・莫越山神社の論社が存在する。
莫越山の麓に鎮座しており、山上に奥宮がある。
9月14・15日の鶴谷八幡宮で行われる国司祭には、
朝夷郡から唯一当社の神輿だけが出祭し、お神酒の醸造も許されている。
相殿の、彦火火出見尊は神梅大御神、
豊玉姫命は子安大神、鸕鷀草葺不合尊は間子大御神というらしい。
これらの神々は、山中4ヶ所に祀られていた。
そのためか、当社は「神梅明神」「子安大明神」とも称されていた。
享保9年(1724)、社殿造営の時に新宮に合祭。
天保年間に、相殿とした。
淡い緑の田の中に、濃い緑の丘が良い雰囲気。
ちょっと急な階段を上ると、境内。
木々に勢いを感じる神社。
(本当に勢いがあるかどうかはわかりません)
鳥居も社殿も神明造。
社殿の右手には、当社を創祀した小民命・御道命を祀った若宮があり、
稲荷・白鳥・琴比羅・八雲・山祇・宗像・猿田・石・白山が合祀されている。
莫越山の麓に鳥居 |
鳥居 | 参道の階段 | 参道の上から |
境内 |
拝殿 | 社前に立派な木 |
拝殿 | 右に若宮社 |
本殿 |
莫越山神社
延喜式内小社。明治六年八月郷社列格(旧社格)
−境内入口の案内板− 由緒抜粋 神社の創立は、社記によれば神武天皇元年、天富命(安房神社の御祭神は天太玉命、天富命ですが、天富命が忌部の祖神である天太玉命を現在の地に奉斎したのです。)が忌部の諸氏を率いて、安房の国に来臨し、東方の開拓をされたときに、随神として来られた、天小民命が祖神である忌部の神、手置帆負命、彦狭知命を当社莫越山におまつりして、祖先崇敬の範を示したとしるされております。 手置帆負命、彦狭知命の二柱は、皇国工匠の祖神で氏上天太玉命に従って其職を奉じ、宮殿家屋器具機械の類をつくりはじめた神です。その神業はうけつがれて今日に至り、上は宮殿から下は人家に至まで、その建築の功績は風雨寒暑をしのぎ、器具機械の効能は種々多彩につかわれ、我々人類に幸をもたらしております。この二神の御神徳によって、私どもは日々幸福な生活ができるといえましょう。従って、その業を職とする工匠は勿論のこと、一般に崇敬され、地鎮祭、起工祭、釿始、柱立祭、上棟祭、葺合祭の主神として奉斎し、小屋安大神、また家宅守護祖神として崇敬されて居ります。相殿に彦火々出見尊、豊玉姫命、鸕鷀草葺不合命を奉斎してあります。この諸神は日本敷物の祖神で畳業家の崇敬あつく、又安産育児の道を守り、海幸の御神徳、海猟海上安全の事も守られ、その道に於いて信仰されて居ります。 古来よりの崇敬 延喜の制に於ては式内小社に列せられ、大化の制に於ては国司の祭祀にあずかって居ります。治承年間に源頼朝の祈願の事があり、神田二十町を寄付されて居ります。里見氏の時代になり三石の寄進あり、徳川氏の時代に於ても三石の寄進がありました。代々領主の祈願所でありました。明治二十五年十二月、小松大将宮彰仁親王殿下より社号額字の御真筆を賜わりました。現在拝殿正面の額字が奉掲されたものです。 講社の起源沿革 祖神講の起源年号はあきらかではありませんが、明和八年、本社の修築の際、その修築費を江戸講中により募集したとありますので、明和以前より存立していたと思われます。明治八年十一月四日、祖神教会講社を浅草西鳥越町二番地に建設し、後にこの教会所は本社に移され、明治三十九年、本所大工職業組合に管理崇敬共に依頼されました。当時の組合長は白鳥豊次郎氏でありました。明治十五年、本社の本殿、幣殿、拝殿を講員の寄付金をもって改築されて居ります。昭和になり東京横浜の各区の職工組合により、講社が結成され年々本社に参拝されて居りました。 −『平成祭データ』− |