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荏柄天神社
えがらてんじんしゃ
神奈川県鎌倉市二階堂74
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旧村社 |
神奈川県鎌倉市にある。
鎌倉駅の北東2Kmほどの二階堂に鎮座。
鎌倉駅から当社へ向う時は、まず鶴岡八幡宮を目指すと良い。
鶴岡八幡宮から東へ進み、鎌倉宮へ向かう道の途中で
当社参道を横切ることになる。
当社の参道入口は204号線にあり、
鳥居と社号標が立っているらしいが、僕は見ていない。
参道の途中、鎌倉宮へ向かう道との交わる場所に、、
木が交差して鳥居状態になった場所があり、そこにも社号標。
木の鳥居をくぐると赤い鳥居が立っており、
参道を進むと階段上に神門がある。神門の横に立て札があり、
開門しているのは午前八時半より午後四時半のようだ。
(平成十四年時点の情報)
参拝客が多そうな神社へは日の出の頃や夕方に参拝することが多いので
夜は閉門する神社の場合、参拝できないこともある。
参道入口、境内入口は南向き。
神門をくぐると正面に鮮やかな朱の社殿。
銅板葺入母屋造平入の拝殿の後方には流造の本殿。
本殿は鎌倉最古の木造建築として鎌倉市指定文化財。
拝殿は関東大震災の復旧工事の際、
鶴岡八幡宮の仮殿を移築したもの。
当社に到着した時には参拝客は僕だけで、
拝殿の扉は閉じていたが参拝中に扉が開けていただいたようだ。
(たんに開ける時間になっただけかもしれないが)
社伝によると、堀川天皇長治元年(1104)の創祀。
菅原道真公を祀る日本三天神の一つ。
(他の二社は、福岡の太宰府天満宮と京都の北野天満宮)
晴天の空が一転にわかにかき曇り雷雨とともに
黒い束帯姿の「天神画像」が天から降って来た。
神験を畏れた里人が社殿を建ててその画像を納め祀ったのが当社の起源。
「天神画像」が天降った地を踏まれないように、
その場所に御神木の大銀杏が植えられた。
古くは荏柄山天満宮とも称された古社。
荏柄の社号は、天平七年(735)の『相模国封戸租交易帳』などに見える
「荏草郷」の「えがや」が転じて「えがら」となり「荏柄」となったらしい。
治承四年(1180)鎌倉大蔵の地に幕府を開いた源頼朝が、
鬼門の守護神として篤く崇敬し社殿を造立。
「吾妻鏡」には二代将軍頼家が大江広元を奉幣使として
菅公三百年忌を盛大に執行されたことや、
身に覚えのない罪を着せられた渋河兼守が、
和歌十首を当社に献じたところ、
歌人でもあった三代将軍実朝が無罪にしたことなど、
当社の名がしばしば登場する。
以後、足利、北条、豊臣、徳川の尊崇も篤い神社。
社宝として、弘長元年の銘がある木造菅公坐像一体(国の重要文化財)、
南北朝の頃の木造菅公立像一体(鎌倉市の重要文化財)、
鎌倉時代の書写である紙本北野天神御伝一巻などがある。
八雲大神(素盞鳴尊)を合祀しているが、
『神社辞典』では菅原道真公の外に四柱を祀るとある。
参拝は平成十四年の晩秋。
このページの掲載は平成二十五年の春。
十年以上前の参拝で記憶も薄れ始めているが、
こうしてページを作成している間に、どんどんいろんなことを思い出す。
境内左手には、漫画家154人による
カッパの絵のレリーフを貼り付けた筆形の絵筆塚がある。
また、境内の右手に鳥居があり、奥に境内社の熊野社があるのだが
縄が張られていたので奥には進んでいないが、
社務所で許可を得て進んで確認しておけば良かった。
当時持っていたデジカメは多くを撮影できなかったので
今のように境内のすべてを撮影しておらず、
樹齢九百年の御神木・大銀杏などの写真もない。
参道 | 鳥居 | 参道階段上に神門 |
神門 | 神門から社殿 | 夜は閉門 |
境内 |
絵筆塚 | 本殿 | 熊野社鳥居 |
社殿 |
荏柄(えがら)天神社
荏柄天神社は、古くは荏柄山天満宮とも称され、筑紫の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並ぶ三天神の一つに数えられる古来の名社で、愛知県に二社、広島県に一社、茨城の古河市を中心に千葉、埼玉の各県にわたって数社の分祠がある。荏柄の社号は、天平七年(七三五)の『相模国封戸租交易帳』(『正倉院文書』)や『倭名類聚抄』の相模国鎌倉郡にみえる「荏草郷」の≪エガヤ≫がのちに転じて≪エガラ≫となり、「荏柄」と表記されたものと考えられる。 創祀は不詳であるが、社蔵の『相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起』によると平安末期の長治元年(一一〇四)八月二十五日に、「一天俄かにかきくもり、雷雨と共に黒袍の束帯すがたの天神画像が天降った。里人は、この神験をおそれ降臨の地に社殿を建てその画像を納め崇拝し、銀杏の木を植え神木とした」とある。境内には今も銀杏の大木が高くそびえている。 治承四年(一一八〇)鎌倉へ入った源頼朝は、大蔵の地に居館を営み幕府を開くが当社を鬼門の守護神と仰いだという。歴代の将軍家を始め幕府の崇敬社であった。『吾妻鏡』にはしばしば当社の記事がみえる。 建仁二年(一二〇二)九月十一日、将軍頼家は当社の祭に大江広元を奉幣使として派遣しているが、『相模国風土記稿』にはこの祭典を菅公の神忌三百年祭と指摘している。 また、建保元年(一二一三)二月二十五日、渋河兼守が冤罪を訴えて当社に献じた和歌十首が源實朝の知るところとなって、罪を許された話は有名で、「兼守虚名を愁へ篇什を奉りて、すでに天神の利生に預り、また将軍の恩化を蒙る。およそ鬼神を感ぜしむる、ただ和歌にあるものか。」と評しているが、この日は天神の忌日であり天神信仰の一端を示し和歌の徳を語るものである。 『鎌倉年中行事』によると、室町期には鎌倉公方は毎年正月二十三日、二十五日に参詣、千句の催しがあったこと、また二月二十三日より二十五日まで参籠するのを慣例としていた。 康正元年(一四五五)六月十六日、今川範忠は公方足利成氏を攻めて鎌倉へ入り、社壇は破られ神体は駿河国へ持ち去られたが、その後に神体は自ら当社へ戻られたという。『鎌倉大日記』はこの神体を天神自筆の画像と伝える。 天文十七年(一五四八)十二月二十七日には小田原城主北条氏康は社殿造営のため、金沢道に関所を設け通行の人馬から関銭を徴収してこれに充てた。今もその地に「関取場跡」がある。『小田原衆所領役帳』に荏柄天神領「廿一貫百文鎌倉社地之内」とみえる。 天正十八年(一五九〇)四月に、豊臣秀吉より二階堂郷中の六ケ所の一つとして禁制をうけ、同十九年、徳川家康は「小坂郡鎌倉之内」より十九貫二百文の地を寄進し近世に至った。 元和八年(一六二二)、鶴岡八幡宮造営の際その古材・残材をもって当社を修営して以来慣例となり、現在の社殿は関東大震災の復旧工事にあたり鶴岡の仮殿を移入したものである。明治維新の神仏分離まで別当一乗院(古義真言宗)が当社を管掌し、社地下の参道東側の地にあったが、現在は住宅地に変わっている。 明治六年に二階堂村の鎮守として村内の熊野社を合祀し、村社に加列。社宝には、弘長元年(一二六一)銘の木造天神像二体(重文)ほか多数存するが、世に知られている「荏柄天神縁起」や「包丁正宗」も、もと当社に伝来したものであった。境内には、漫画家の清水崑氏が、鎌倉在住以来の神縁を感謝し、自ら愛用した絵筆を納めた石碑「かっぱ筆塚」がある。表には清水崑氏の河童の絵、裏には川端康成氏の『かっぱ筆塚』の題字が刻されている。また、漫画家の横山隆一氏が中心となり、漫画家一五四名のかっぱ絵をレリーフした、筆型で高さ三メートル二十センチ、直径一メートル、重さ八百キログラムの青銅製「絵筆塚」が、かっぱ筆塚の後方にある。毎年十月中旬にはお焚き上げした古筆の灰を絵筆塚に納める『絵筆塚祭』が、全国の漫画家多数参列のもと行われている。 −『平成祭データ』− |