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吾妻神社
あがつまじんじゃ
群馬県吾妻郡中之条町横尾1354
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旧郷社 |
群馬県の中之条町にある。
吾妻線・中之条駅の北東1.5Kmほどの横尾に鎮座。
145号線と名久田川に挟まれた場所に境内がある。
145号線側にも鳥居があり、境内の横から入る事が出来るが、
145号線から東に入ると南向きに境内入口の赤い鳥居が立っている。
鳥居の足元に「郷社吾妻神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり参道を進むと右手に手水舎があり、正面に赤い屋根の神門。
神門をくぐると社殿のある広くて大きな境内。
境内左手に参集殿があり、右手に額殿や神楽殿が建っている、
拝殿は銅板葺き入母屋造妻入で、後方の本殿は流造。
拝殿には彩色された龍の彫刻が施されていた。
参拝は十一月の初旬。
木漏れ日がありがたい、肌寒い日の午前十時。
創祀年代は不詳。
一説には和銅年間の創祀とも伝えられる古社だが、
文化年間の火災によって社殿、古記録が焼失し詳細は不明となったらしい。
古来、国司、武将の尊崇され、吾妻郡全郡に及び崇敬されていたという大社。
当社の本殿は、もとは現社地の西南300mほどの御洗水山頂にあり、
現社地には拝殿のみがあった遥拝所だったが、
参拝が不便であったため本殿を現社地に遷座させた。
児持山七社、あるいは吾妻七社明神と称される神社の一つ。
通称は、和利宮(わりのみや)。
境内の由緒書には、和流宮とあり唐流に対する大和流の意味で、
そのため当社の主祭神は大穴牟遅命であると記されている。
その後、和流宮が割宮、和利宮へと変化したという。
『神道集』の「児持山大明神の事」には、児持山大明神の縁起が記されており、
当社は、児持御前(児持山大明神)の夫である加若次郎和理が神となったものとある。
明治維新後、村社六社、無格社十八 社、境内末社百二十七社、
合計百五十一社を合祀し、吾妻神社と改称して郷社に列した。
拝殿の屋根に三つ巴紋が付けられていたけど、
『全国神社名鑑』に神紋の記載がないので、当社の神紋かどうかは未確認。
とりあえず掲載しておく。
社頭 |
鳥居 | 参道 |
神門 | 額殿 |
境内社殿 |
参集殿 | 神楽殿 |
拝殿 | 拝殿彫刻 |
社殿 |
拝殿 | 本殿 |
吾妻神社由緒記
当社ノ創祀ハ、上古ノ時代ナルコトハ当社ノ資料ニ
依リ立證セラルルモ、文化九年四月十三日社殿祝融
ノ災ニ会イ旧記古文書凡テ焼失セシ為詳細ニ知ルヲ
得ザルハ吾人ノ最モ遺憾トスル処ナリ。中古以前ニアリテハ本殿ハ現社地ノ南西参丁ヲ距テ シ御洗水山ノ頂上ニ鎮座シ現社地ハ拝殿ノ所在地タ リキ、然ルニ中古以後現社地ニ奉遷セシハ旧社地ハ 険阻ナル丘上ナリシヲ以テ、諸人参拝ノ不便ナリシ ガ為ナルベシ。 本社ノ社名ハ中古以前ニアリテハ和流宮ト称シ奉レ リ、蓋シ和流ハ唐流ニ対スル大和流ノ義ニシテ本社 ノ主神ハ大穴牟遅命(大国主命)ニ座マス。然ルニ 中古ニ至リテ、社名転訛シテ割宮(天正十八年当社 古記録)ト称シ、或ハ和利宮(貞享三年当社古記録 )ト称スルニ至ル。 明治維新後地方各村ニ亘リ、村社六社、無格社十八 社、境内末社百二十七社、合計百五十一社ヲ当社ニ 合祀シ同時ニ従来ノ俗称タリシ吾妻大社ナル尊称ヲ 踏襲シ吾妻神社ト認可改称セラレタリ。 旧社格 郷社 社殿ノ造営 文化四年四月一日 棟梁 上洲群馬郡元総社村出雲㊎ 門弟 庄太夫㊎ 𠀋左ヱ門㊎ −境内由緒書− |