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十三社神社
じゅうさんしゃじんじゃ
東京都新島村1
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旧郷社 |
伊豆七島の新島にある。
新島村役場から北へ進み、小学校の横を通ると境内がある。
境内入口の大鳥居をくぐると広くて長い参道。
参道脇の植物は南国のものが多いようで異様な雰囲気。
参道の右手には石塀で囲まれた境内社が並んでいるが、
様式がそれぞれ異なっており面白い。
参道を進むと、第二の鳥居があり階段奥に神門。
神門をくぐると広くて明るい境内。
境内中央に池のようなものがあって石橋がかかっており、
その橋の正面が社殿。
拝殿は瓦葺入母屋造妻入り。後方の本殿は高床式の流造のようだが、
ひょっとすると中に祠が納められているのかもしれない。
本殿の真後ろ、石壁の部分に数段の階段があり、
何かありそうなので登ってみたが、鬱蒼と茂った森。
御神木でもあったのだろうか、あるいは何かを祀っているのだろうか。
参拝は4月の終わり、GWの頃。
新島内のいくつかの神社参拝を予定していたが、
島内の移動手段を確保しておらず、歩きまわって参拝。
当社で力尽きたのでゆっくりと港に戻り船を待った。
創祀年代は不詳。
往古、伊豆諸島開拓の祖神・事代主命の子、大三王子明神が
父命の志を継ぎ、同族諸神とともに近島平定の基を固め、
新島の地主神として大三王子神社に祀られた。
後、事代主命を主神として、
各地に祀られている大三王子明神をはじめとする同系一三柱を
村の中心部に集めて祀り、新島の総鎮守、惣社として創建された。
一説には孝安天皇の御代、伊豆国東南の海中に島が出現した際に祀られたという。
『三宅記』によると三島大明神は五人の后を島々に置き、
あたら嶋(新島)の后を、「みちのくちの大后」と言う。
新島の近くの小島・式根島の泊神社に祀られている「みちのくちの大后」には
二人の王子がおり、兄を大宮王子(あるいは大三王子)、弟を第三王子という。
慶安二年(1649)、村内の災害を顧慮して現在地に遷座。
享保三年(1718)、神祇官より正一位の極位宣旨を受け、
明治六年十二月郷社に列した。
『全国神社名鑑』によると当社の神紋は「丸に梅鉢紋」。
拝殿前の賽銭箱にも刻まれていた。
同じく『全国神社名鑑』によると当社の末社は二十社あるらしい。
合祀されている同系の神々を祀る各社が末社となっているのだろう。
また、それぞれの境内社の前に社名を記したものがあったが、
文字がかすれて読めなかったのが残念。
確認できた境内社は、祖霊社、久須志神社、須賀神社、夜種神社。
社頭 |
参道 | 参道 |
参道の鳥居 |
神門 | 広い境内 |
神楽殿 | 池と石橋 |
境内社殿 |
本殿 | 拝殿 |
拝殿左の境内社 | 拝殿右の境内社 |
参道の祖霊社 | 社名未確認 |
久須志神社 | 須賀神社 |
社名未確認二社 | 夜種神社 |
十三社神社
往古、伊豆諸島開拓の祖神事代主命の御
子大三王子明神は、父命の志を継ぎ、同族
諸神とともに本拠を新島におき、諸島平定
の基を固めた。この神社の祭神は、事代主命主神をはじ めとし、新島関係の同系十三神を祭祀し、 総社として創立されたもので、十三社大明 神と称している。 本社はもと村の中心部にあったが、慶安 二年(一六四九)六月、村内の災火の厄をおそ れ、現地に転社した。享保三年(一七一八)七月、 神祇官より神階正一位の極位宣旨をうける。 明治六年十二月、郷社に列し、昭和八年 本殿、同十五年拝殿を新築造営する。 神域は広大で、幽玄鬱蒼とした神木は、 往古の神秘を語るようである。神社の規模 や神域の荘厳さは近傍随一と称され、新島 の総鎮守として諸人の信仰をあつめている。 −社頭案内板− 十三社神社
本村の北端に、背後に大きな岩山を背負うように建っている。大鳥居をくぐると長い参道が続き、第2の鳥居をすぎて石段を登りきると神門がある。本殿には、大国主命の子・事代主命を主神として、新島関係の同系12神がいっしょに祀られている。境内にはさまざさな形の末社がある。この杉木立に囲まれた境内は広く、規模とともに伊豆七島随一で、古い歴史をもつ島の総鎮守である。 十三社神社の東側の山にある田原遺跡からは縄文・弥生の土器片が発掘され、また社宝の絵、鏡などは都の有形民俗文化財に指定されている。 −『平成祭データ』− |