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稲含神社
いなふくみじんじゃ
下仁田栗山 稲含神社 群馬県甘楽郡下仁田町栗山1622
甘楽秋畑 稲含神社 群馬県甘楽郡甘楽町秋畑6016
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式外社 稲褁地神 三代実録 |
群馬県の甘楽郡にある。
下仁田町と甘楽町にまたがって聳える
稲含山(1370m)の山上に鎮座。
山頂の少し下、下仁田町側と甘楽町側に二つの稲含神社社殿がある。
稲含山には下仁田町と甘楽町の両町から登ることができるが
僕は甘楽町方向から登ってみた。
254号線の上信電鉄・上州福島駅付近から南に進み
甘楽町役場、上信越道を通過して12Kmほど。
雄川にそって46号線を南西へ進むと、秋畑の奥、
稲含山登山口への林道のある集落に到着する。
この那須地区には、稲含神社里宮がある。
秋畑那須地区にある稲含神社里宮 |
里宮社殿 | 扁額、稲含神社里宮 |
那須地区から舗装された林道稲含・高倉線を5Kmほど進むと神の池公園。
ここに駐車場があり、稲含山への登山口があるが、
その駐車場の手前にも、稲含神社が存在する。
登山口にあるので、いわゆる口ノ宮という社だろうか。
登山口に登山道の絵があったので掲載しておく。
山頂付近にある左の社が甘楽秋畑稲含神社。右の社が下仁田栗山の稲含神社。
登山道は一の鳥居付近で左右に分岐し、山頂付近で合流する。
この絵では、下仁田の社は、登山道の合流点より右(下)にあるように見えるが、
実際は、合流点から山頂へ向かう道の途中にある。
赤鳥居から登る右の登山道が、下仁田町と甘楽町の境界線で
合流点から上は、下仁田町に属しているのだ。
登山口の神の池公園近くの稲含神社 | 社殿 |
神の池公園の登山道地図。大きな画像 |
神の池公園から200mほど登ると、再び林道と交差する。
林道から少し登ると一の鳥居があり、登山道分岐点。
由緒を刻した石碑が立っているが、これは秋畑の社のもの。
僕は、とりあえず、一の鳥居をくぐったので二の鳥居へ進むことにした。
50mほど進むと、大ケヤキへの道との分岐点。
大ケヤキまで400mらしいので、無視して先へ進む。
なだらかなハイキングコースのような道を進むと神の水。
大きな岩があり、小さな流れがある。
一の鳥居 |
登山道分岐点(赤鳥居は右へ) | 神の水 |
この付近から、登山道はやや急な山道となる。
神の水から少し登ると二の鳥居。
ニの鳥居を良く見ると、笠木の上に三本の木が立っている。
まるで「オバケのQ太郎」のようだ。
今は木しか残っていないが、本来は御幣が三本立っていたのだと思う。
根岸栄隆が『鳥居の研究』の中で、「榛名神明」と名付けて分類した鳥居。
伊香保・榛名付近から西側に見られる特徴的な鳥居らしい。
デジカメで撮った一の鳥居を確認すると、一の鳥居の上には一本立っていた。
春の例祭の頃に来れば、完全な形で見ることができるのかもしれない。
二の鳥居から、狭い山道をウネウネと登って行くと、
甘楽秋畑の稲含神社に到着する。
神門と割拝殿と参籠所を兼ねたような建物をくぐると境内。
境内左手に神楽殿があり、拝殿・本殿がある。
二の鳥居 |
秋畑稲含神社 | 神門を兼ねた割拝殿 |
秋畑稲含神社境内 |
本殿 | 拝殿 |
甘楽秋畑の稲含神社の右手へ進むと、赤鳥居からの登山道と合流する。
上にも書いたが、この合流点から上は下仁田町。
赤鳥居側の登山道からみた合流点の道標には、
「秋畑稲含神社←→稲含神社・山頂」と記されており、
登山口の絵では、下仁田の社は「上宮」と記されているが、
ひょっとすると、単純に「稲含神社」という場合は下仁田の社を示すのだろうか。
などと考えながら登って行くと下仁田栗山の稲含神社に到着する。
ここにも、神門と割拝殿と参籠所を兼ねた建物があり、
その奥に拝殿と本殿がある。
栗山稲含神社の割拝殿 | 山頂への登山道 |
栗山稲含神社境内 |
拝殿 | 本殿 |
拝殿扁額 | 境内から割拝殿 |
創祀年代は不詳。
登山道にあった由緒石碑では、第二十九代欽明天皇の御代、
秋畑稲含神社境内の案内では、第二十八代安閑天皇の御代の創建とある。
(実際は、安閑天皇は第二十七代なので誤記だと思う)
『三代実録』に元慶四年五月二十五日、
従五位下を授かった稲褁地神とある国史見在社。
『上野国神名帳』の一之宮貫前神社所蔵本に「正一位 稻含大明神」とある古社。
ただし、『上野国神名帳』の他の写本にはこの記述は無い。
貫前神社所蔵本にのみ記されているのは
貫前神社との関係が深かったからかもしれない。
境内の案内板によると、祭神は豊稲田姫。
印度から来て、養蚕や稲作を日本に広めた女神であるという。
豊稲田姫は名前から、稲作の神と考えられ
宇迦御魂神、豊宇気毘売神、倉稲魂神、保食神、御食神などと同神と思われる。
豊稲田姫は、日本に稲の種子を持ってくる時に、
口に含んで隠して持って来たことから、稲含山の名となったようだ。
秋畑の稲含神社では、太々神楽が奉納される。
この神楽は、安政年間(1854〜1859)、稲含神社の領有をめぐり、
下仁田町栗山と争った結果、秋畑が勝ったことを祝って奉納したのが始まりらしい。
ただし、稲含山山頂は下仁田に所属している。
下仁田の社からさらに登ると山頂に到着するのだが、
山頂には興味ないので、参拝を終えてさっさと下山。
下りは赤鳥居側の登山道を下ることにした。
こちらの登山道は丸太階段が綺麗に並んでいるが、登るのは辛そうな感じだ。
なるべく足に負担のないように注意しながら下っていると赤鳥居に到着。
下っている途中、浅間山や妙義山などが良く見える。
赤鳥居から少し下りた場所に茂垣峠があり駐車スペースがある。
そこから山道を200mほど進むと、登る時に通った登山道の分岐点に到着する。
赤鳥居へ戻る登山道から浅間山や妙義山が見渡せる |
赤鳥居に到着 |
稲含神社御祭神と由緒
−登山道分岐点の由緒石碑− 稲含神社の起源
稲含神社の祭神は豊稲田姫とされている。
『稲含大明神御縁起』によれば、第28代安閑
天皇の御代(530年頃)に創建されたといわ
れる。那須の中野 保家には、この縁起書の
写本が保存されており、永正2年(1505)3月
と記されている。その文面には、豊稲田姫は
印度の国から日本へ渡って、養蚕、稲作を日
本に広めたとあり、また姫は稲含へ行って蚕
を飼ったという伝説がある。参道の途中に、手水場・籠岩・桑の木沢と いう所がある。山から出て来た姫は、”天熊 の大人”という人物を従えて、神池の手水場 で御手を洗い、大人の命により桑の木沢より 桑を取らせて、岩の上で蚕を飼われた。それ からこの岩を籠岩と言うようになったという。 豊稲田姫は、印度から稲の種子を持って来 られるのに苦労され、どこに隠しても見つか ってしまうので、口に含んで持って来られた と言われている。 以来、養蚕を五穀の守神として、今も多く の人が参詣している。 この神楽は、安政年間(1854〜1859)の出入り(稲含神社の領有を めぐり、下仁田町栗山と争った)で秋畑が勝ったことを祝って奉納した のが始まりである。 神楽の師匠は、武州本庄宿新田(埼玉県本庄市)の細野竹松・橋本 大助の2人(当時、日本三大神楽の一つといわれた秩父神楽の師匠 として高名であった)で、稲含神社の社人(世話人)22名全員が 教えを受け、稽古して免状をもらった。 この時の社人達が共同で衣装、道具などを揃え、面も神楽をする人達 がそれぞれ奉納してきたという。 神楽は25座で、翁の舞・猿田彦(サルダ)の舞・夫婦の舞の3座は 必ず舞うが、その後は何を舞っても良いことになっている。 神楽奉納の時期と場所は、正月7日の御筒粥神事の翌日は集落、 5月3日稲含神社、翌4日は集落で行われる。 −秋畑稲含神社境内案内− |