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蛇宮神社
じゃぐうじんじゃ
群馬県富岡市七日市1003
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旧村社 |
群馬県富岡市にある。
上信電鉄・上州七日市駅の南500mほどの七日市に鎮座。
254号線を越えて南下し、富岡高校の南に境内がある。
境内入口は東向き。
道路が少しカーブしているところに、木製の鳥居が立ち
鳥居の左手には「村社蛇宮神社」と刻まれた社号標。
社格廃止のためだろう「村社」の部分は塗り埋められている。
鳥居をくぐると広い境内。
境内を奥(西)へ進むと、右手に神楽殿。
正面には入母屋造の拝殿があり、拝殿の後方に神明造の本殿がある。
鳥居や拝殿の扁額には「正一位蛇宮大明神」と記されている。
参拝は晩秋十一月のせいか、境内一面は茶色のイメージ。
他に参拝客もなく、ひっそりとした印象だったが、
春の例祭には境内で農具市が開催され、
秋の例祭には神楽殿で神楽の奉納があるらしい。
拝殿の前に賽銭箱があるが、そこに
「賽銭盗難が多いので不審者を見かけたら云々」とあった。
なるべく不審者に見られないように、カメラをアピールしながら参拝した
創祀年代は不詳。
『上野国神名帳』に「従五位上 於神(おかみ)明神」とある古社で、
祭神は高龗(たかおかみ)神。一般には雨の神、水の神、龍神と考えられている。
当社には蛇宮伝説というものがあるらしいが詳細は調べていない。
社殿横に「龍の爪かき石」という穴のあいた細長い石が二つある。
その案内説明によると、縄文後期の神籠石だそうで当社の御神体。
石の穴は、白蛇が龍となって昇天する時に爪で蹴ったあとだとか
天狗が蹴ったあとだという伝説があるらしい。
また、「龍の爪かき石」の横に「孕み石」という丸石があり
これにも穴が一つあいている。
丸石が妊婦の腹に似ていることから安産祈願に御利益があるそうだが
この石は鏑川から神様が投げ込んだという。
以上のことから類推すると、
鏑川に住む白蛇の姿をした神が当社の神。
鏑川の洪水を治め、農地を潤す神なのだろう。
いつの頃か諏訪大明神が祀られるようになったが、
明応三年(1494)九月二十九日(あるいは明応元年九月二十三日)
蛇宮大明神として再建された。
諏訪大明神の国・信濃との国境に近く、
また、諏訪大明神の本地を蛇神となった甲賀三郎とする説もあるので
蛇神を祀る(と思う)当社が諏訪大明神とされていたのも納得できる。
のち、元和二年(1616)前田利家公の五男利孝公が、
上州甘楽郡内に一万十四石を賜わり、七日市に入封し陣屋を造営。
当社のそばにある富岡高校が、その陣屋の跡地だそうで、
明治維新まで、歴代藩主を通じて当社を守護神として崇敬し
七日市藩の総鎮守として庇護したという。
明治初年、神仏分離令により別当の蛇宮山金剛院慈眼寺の管理を離れ、
明治十二年(1879)村社に列せられた。
当社の社宝として、
春日大明神の守り神付き、七日市藩租前田利孝の鯰尾の兜
(富岡市指定重要文化財)と、
寛政九年(1797)七月七日、上黒岩の打越で発掘、
藩主前田家に献上されて、昭和になって当社に寄進された
オオツノシカの化石骨(群馬県指定天然記念物)があるらしいが、
現在は市立美術博物館に預けられている。
賽銭箱、拝殿屋根に星梅紋が付けられていた。
庇護者である前田家の家紋・梅鉢紋によるものだろう。
境内にはいくつかの古墳がある。
平坦な境内の中で、塚のようにもっこりしたいるのが古墳のようで、
その中で、社殿後方の七日市9号墳の上に御嶽神社。
境内左手の七日市12号墳の上に八幡宮が祀られている。
社頭 |
鳥居 | 境内 |
拝殿 | 神楽殿 |
境内社殿 |
拝殿 | 本殿 |
正一位蛇宮大明神 | 賽銭箱に梅紋 |
社殿後方、古墳の上に御嶽神社 |
古墳の上に八幡宮 | 社殿横に二組の石 |
球石(孕み石) | 龍の爪かき石 |
龍の爪かき石
龍の爪かき石は、蛇
宮伝説の基となる石
で、当社の御神体(
縄文後期の神籠石)
だったとも言われ、
その石の穴にも白蛇
が龍になって天空を
かける時に爪で蹴っ
た跡だとも、天狗が
昇天の際に足で蹴っ
たとも言い伝わって
いる。球石(孕み石)
球石は、表面の滑らかで丸く
膨らんだ硬質の石がちょうど
、妊婦の腹部を思わせる臍の
穴に似た穴があいているとこ
ろから『孕み石』と呼ばれ、
民間では、安産の神として多
くの人々によって撫でられ信
仰されている。この石は、む
かし神様が鏑川から投げ込ん
だともいわれている。一説に
よると弘化三年(一八四六)
八月に高田川が、大洪水をお
越[原文ママ]した際に、犬飼河原に流れ
寄った石を土地の人々が、神
様のお籠りになっている石に
違いないと言って、当社に奉
納したとも言い伝えられてい
る。−境内案内板− 蛇宮神社社誌
当社の創建は明らかでないが、上野国神名帳甘楽郡三十二社の従五位上於神明神と考えられる古社である。また、社伝の蛇宮大明神縁起によると、もともとは諏訪大明神が祭られていた地に、明応三年(一四九四)九月二十九日(異本明応元年九月二十三日)蛇宮大明神として再建された。 武家の時代に至っては、元和二年(一六一六)前田利家公の五男利孝公が、上州甘楽郡内に一万十四石を賜わり七日市に入封し陣屋の造営以来明治維新まで、歴代藩主を通じて当社を守護神と崇敬し社領若干を寄進するなど庇護を受けた。 特に十一代藩主利豁公は、社殿の造営等に力を注いだ。 明治初年神仏分離令により、当時別当の蛇宮山金剛院慈眼寺の管理を離れた。 同十二年(一八七九)初めて村社に列せられ、同四十四年(一九一一)に七日市内の四社と御三社を合祀し総鎮守となった。 大正四年には、神饌幣帛供進指定神社となったが、昭和二十一年社格制度の廃止に伴い境内地並び立木の無償払い下げをうけて宗教法人となった。 昭和五十六年より氏子各位の御協力と御理解にもとずき社殿等境内整備事業を行いつつ現在に至っている。 −『平成祭データ』− |