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稻田神社
いなだじんじゃ
茨城県笠間市稲田字宮山763
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茨城県笠間市にある。
稲田駅の西500mほどの稲田に鎮座。
50号線から少し北へ入った場所にあり、
参道入口、車道に大きな鳥居が建っている。
鳥居の横には「縣社稻田神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐって100mほど参道を進むと階段があり、
階段の中腹にも鳥居。
階段を上ると社殿のある境内。
正面に大きな入母屋造の拝殿があり、
左手の建物(神饌所だろうか)と、長い渡り廊下で繋がっている。
拝殿の後方には、垣に囲まれて流造の本殿がある。
境内は右手に広く、脇道から車で境内まで入ることができるようだ。
参拝は秋の休日。いわゆる行楽日和で、
天気が非常に良く、境内の日差しも強かった。
創祀年代は不詳。
出雲国造と同祖であった新治国造が奉斎した神社で
式内名神大社・稻田神社に比定されている古社。
江戸時代の『稲田姫神社縁起』によると
当地の邑長武持という人物の家童が、
稲田好井の水を汲もうとしたところ
井戸のそばに美人が立っていた。
急ぎ帰って主人・武持に報告、武持が礼拝して問うと
「吾は奇稲田姫である。かってこの地の地主神であった。
汝は昔、吾に仕えた者の子孫である」と告げ、
「ここに、吾が父母の宮、夫婦の宮を建て、
好井の田の稲を以って祀れ」と神託したのが当社の起源。
よって、境内の父母の宮(母神・手摩乳神社、父神・脚摩乳神社)と
夫婦の宮(本社、夫神・八雲神社)は「四宇の神籬」として
当社の中心として重視されている。
当社の北西300m、稲田山の中腹に稲田姫の降臨したという本宮がある。
名神大社であり、中世までは有力な神社であったが、
中世末期の火災により衰退。
慶長七年に再興されたが、往時の面影はなかったらしく
元禄の頃、水戸光圀が参拝した時、
「此やしろは神名帳にものりて尊き社なるを、
かやうに零落いたし候段、痛ましき御事也」と記したという。
その後、社殿は再建されたが、弘化二年(1845)三月、再度焼失。
その三年後に再建されたのが、現在の社殿らしい。
明治六年四月郷社に列し、明治十六年四月一日県社に昇格した。
配祀の神々は、郷社になった時、近隣の五社を合祀したもの。
その五社とは、
香取神社(經津主命)、天満宮(菅原道眞)、山王宮(大山咋命)、
神明宮(大日孁貴命)、稲好井神社(祭神未詳)。
大きな神社なので、いくつかの境内社の祠が散在している。
拝殿右手には、境内社としては大きな八雲神社。
その他の境内社は、みな小振りで屋根が青いのが特徴。
まず、境内の参道左右には、手摩乳神社、脚摩乳神社、
社殿左手には、稲荷神社、秋葉神社、
参道階段途中に天満宮がある。
『式内社調査報告』には、他に山ノ神社があると記されているが
気付かなかった。見落としたのだろう。
参道入口 |
参道 | 参道鳥居 |
社殿 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
八雲神社 | 天満宮 |
脚摩乳神社 | 手摩乳神社 |
秋葉神社 | 稲荷神社 |
−社頭案内板より− |