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鎧神社
よろいじんじゃ
東京都新宿区北新宿3−16−18
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東京都新宿区にある。
中央本線の南側、東中野駅と大久保駅の中間あたりに鎮座。
境内入口は東向きだが、やや南寄り。となりに保育園がある。
鳥居右脇に「鎧神社」と刻まれた社号標があり、
左手に境内社の天神社。
天神社社殿の左右にある狛犬は、珍しい「狛犬型庚申塔」で
新宿区指定有形民俗文化財になっているらしい。
鳥居をくぐると広い境内。
左手に手水舎、右手に神楽殿があり、正面に社殿。
拝殿は入母屋造の木造だが、後方の本殿はコンクリートの流造。
御朱印の日付にある通り、
当社への参拝は2011年3月11日の午後。
参拝時は晴天の青空だったが、参拝後から曇り始め、
次の参拝目的地・水稲荷神社を目指し、高田馬場に到着した頃には曇天。
参拝後にて早稲田通りを歩き駅前で信号待ちをしている時に、
東日本大震災に遭遇。揺れはおさまったが電車は運休。
池袋まで歩いたが高速バスも運休し、長野に戻れなくなった。
創祀年代は不詳。
醍醐天皇の御宇、円照寺が創建されたようで、
その時期に円照寺の鬼門鎮護の神祠として祀られたと考えられる古社。
通称は、鎧さま。
江戸時代までは鎧大明神と称し柏木村の鎮守として崇敬された神社。
「鎧」の社号は、日本武尊東征のみぎり、
甲冑六具を当地に埋めたことによると伝えられている。
また、天慶三年(940)平将門公下総猿島で亡ぶにおよび、
土俗これを追慕して天暦のはじめ、将門公の鎧もここに埋めたとも、
さらに、藤原秀郷(俵藤太)が病を得て円照寺薬師如来に参詣し、
将門の祟りを恐れて鎧を埋めたところ病が平癒したとも伝えられている。
いずれにしろ「鎧」を埋めた地。
「鎧」を埋めた行為が何を意味するのかわからないが、
戦いの終焉宣言、亡くなった者への鎮魂、祟りの回避などが目的だったのだろうか。
明治になって、朝廷への謀反人である平将門の霊は末社に遷されたが
その後、本社へ戻されたらしい。
本殿の左手(南側)に、
稲荷神社、三峯神社、子の権現を合わせた境内社があるが小祠は二つ。
御朱印をいただいたが、当社の旧社格を聞き忘れた。
各社の社格の記載がある『神社名鑑』には当社は載っておらず
『全国神社名鑑』『東京都神社名鑑』には社格の記載はない。
社頭 |
南側入口 | 東側(表参道)鳥居と社号標 |
境内は東向き |
拝殿 | 本殿 |
社殿 |
稲荷神社・三峯神社・子神社 | 三末社鳥居と本殿 |
神楽殿 | 天神社 |
天神社に狛犬型庚申塔がある | |
鎧神社縁起 醍醐帝の御宇(八九八年−九二九年)、理源大師徒弟、筑波の貞崇僧都、行基作と伝える薬師如来像を此地に安置すとあり、これが円照寺の創建と考えられるので、同じ頃、寺の鬼門鎮護の神祠として祀られたのが神社の初めで、後世土地の産土神社として尊崇されて来たものである。 旧記によれば柏木本村および青梅街道南側の淀橋町、更に成子町をふくんで鎧神社の氏子地だったのだが、昔時、神社の摂社である天神社(北新宿四丁目柏木公園の地にあった)を成子町に移してまづ成子地区が分立し、明治維新以後淀橋町南側はもともと角筈字地だったので熊野神社氏子地となり、柏木本村のみを氏子地として現在に至っている。(西新宿七丁目の七番地の地区及び北新宿全部)このあたりはもと春日局の所領の地で石高は三百石ほどと記されている。村の中央(北新宿一丁目付近)に春日とよぶ字が残っていたがこれは局の下屋敷跡で、死後は菩提寺、湯島の麒祥院持となっていた。明治中頃まで高燥で肥沃な土地に植木を培養するもの、又東京市中へ鬻ぐ野菜を耕地するものが多かったが、日露戦役以後は人口遽に増加して畠地に家屋敷建ち、商家店頭を飾り大正の初め戸数一千余戸を数えたという。 このあたりを柏木と云うのには諸説があるが、昔、京の人に柏木右ヱ門佐頼季という官人が罪をえて此地に遠流し、中野の郷に住んでいた折、円照寺内に桜の木一本を植えたのが、後立派な名花となるに及んで、人々右ヱ門桜と呼んで近隣に名をあげた。これにちなんで此処を柏木右ヱ門佐の姓をとって柏木と名づけたという。(小田原北条家の所領中に柏木の地名が既に記されている) 当社は江戸時代まで鎧大明神と称し、此あたりの古社として人々の尊崇をうけて来たが、この鎧の社名は伝説によれば、日本武命、御東征のみぎり甲胄六具の内を此地に蔵めたことにより、この社名起ると伝えている。下って天慶三年(九四〇年)関東に威をとなえていた平将門公、下総猿島に亡ぶるに及んで、士俗の之を追慕して天暦(九四七年)の始め、将門公の鎧も亦此処に埋めしという。又一説によれば藤原秀卿重病を得て悩み苦しんでいた時、たまたまこの地に至り薬師如来を本尊とする円照寺に参詣した所、将門公の神霊の祟りなるを恐れ、寺内に公の鎧を埋め厚く一祠を建ててその霊を弔いしに、病ことごとく癒えたという。それを聞いた里人たちその神威のあらたかなるを恐れ畏み、以後村の鎮守の社として近隣の尊崇をうけて来たと伝えている。 日本武命は十二代景行天皇の皇子で本名を小碓皇子と云う。十六歳で勅命により常陸、武蔵、甲斐等を歴遊しての帰路尾張にて病を得、能褒野に至って薨去された。その折みたまは一羽の白鳥と化して天に上られたと記されるなど、大己貴命は有名な大国主命の若い頃の御名前で出雲の国づくりに又いなばの白兎の説話にみられるように仁の神様である。 少彦名命は神産巣日神の御子で天上より大国主命の国づくりに参画した神様で、身体は大変に小さかったが、知恵すぐれ、大己貴命とともに医薬、殖産の神として広く尊崇されている。智の神様である。 また平将門公は桓武帝五代の子孫で、亡父の遺領のことで伯父たちと争ううち、戦いはいつか拡大して叛乱となり関東一円を治めた。のち藤原秀卿によりうたれたが、藤原貴族政治の地方民への圧迫と、藤原一門の権勢に反感をもつ地方豪族の共鳴を得た将門公の統治は、民衆の味方として、死後もその霊を畏れ尊び、関東の各所には公を祀る民衆の神社が多く創られて来た。 −『平成祭データ』− |
加門七海の著書『将門は神になれたか』(文庫版は『平将門魔方陣』)には、
当社などの江戸における平将門ゆかりの神社が、
一種の魔方陣として配置されているのでは、と記されており興味深い。
雑記帳『平将門魔方陣 「将門は神になれたか」』参照。
これによると、山手線東側には将門の頭に関る神社が配置され、
山手線西側の当社が胴(鎧)であり、間に将門調伏の神社が配されて
胴と頭を分断しているのかも、と想像している。