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立野神社
たてのじんじゃ
茨城県常陸大宮市上小瀬字白幡351  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 常陸國久慈郡 立野神社
旧郷社

御祭神
級長津彦命 級長戸邊命 素盞嗚命

茨城県常陸大宮市(旧緒川村)にある。
緒川総合支所の南500m、小瀬小学校の前に鎮座。
「小瀬小下」バス停横、道路わきの鳥居から、
綺麗な参道が北へ延び、
階段をのぼって境内。正面に社殿がある。

参拝した時には、社殿の斜め前に「雷損木」(雷被害を受けた木)があり、
「危険」の案内と、周囲に鎖の柵が張られていた。

社伝によれば、大同年中の創祀。
当地の東1Kmにある立野山にあった当社を、
当地・白幡山にあった鹿島神社に合祀し、
「立野鹿島大明神」と称したという。

『式内社調査報告』では、この遷座・合祀の経緯を以下のように推察している。
当地には、正八幡と鹿島が存在。
元禄期の水戸藩の一村一鎮守により、鹿島神社のみとなったが、
その規模は、整理以前の正八幡と同じ規模。
さらに、白幡山は八幡に縁の地名であることから、
実際は鹿島が整理され、残った正八幡が鹿島と改名。
その後、立野山の立野神社を合祀し、立野鹿島となった。

合祀の政策は、明治時代だけではないのだ。

境内への階段の横、社殿の左右に境内社が並んでいる。
社殿右手の境内社の端に、大黒天の石碑があり、
「佐竹七福神・大黒天」とあったが、祭神とは関係なさそうだ。

境内の左手に社務所があり、そこのトイレを使用したが、
トイレ内に、小さな蛇が居た。すぐに逃げたけど。


鳥居

参道

境内社

境内

社殿

本殿左の境内社

社殿

本殿

境内社と大黒天

立野神社由緒
鎮座地茨城県那珂郡緒川村大字上小瀬(下郷白幡)三五一番地
一、祭神 級長津彦神
級長津戸辺神
大和国龍田宮風伯神と同体と伝えられている)
二、創立
 創立年代不詳 当社は物部氏の族立野の連が鎮斎したと伝えられてい るが、延喜式神名帳に「常陸の国式内社二十八社の第十一座久自郡立野 神社」とあり、式内社は大化二年から三年(大和時代)に建立されたも のが多く、当社もその頃の創立と考えられる。
三、沿革
 日本三代実録に「貞観十六年(平安時代)正六位を授贈せり」とあり 明應九年(室町時代)には正三位を授贈されている。
 当時の社域は、現社域より東南東約一キロの西塩子境の立野山の山腹 にあったが、天正年間(安土、桃山時代、一説に天文十八年‐室町時代 )佐竹氏の族小瀬庄三郎義隆が村民と相談の上、村の中央白幡山の鹿島 神社に合祀し、立野鹿島神社と尊称し小瀬の総鎮守とした。天保五年( 江戸時代)藩主源烈公より地方二十一石寄付され、また、明治五年には 徳川昭武君より水戸家重宝の塗弓一張が奉納された。翌六年には三十ヶ 村の郷社に列格同四十年には供神指定神社となった。昭和二十七年から は宗教法人立野神社として運営されている。
 平成五年四月二十九日、佐竹七福神の一神「身代り大黒天」が奉安さ れ、また、翌六年五月には「平成御大典記念」の三年有余の歳月をかけ た整備事業竣功となり、神域も整備され荘厳さを増し、社頭も愈賑々し くなってきている。
四、祭日 春季例祭 三月十九日
秋季大祭 十一月五日
祇園祭 六月第二土曜・日曜

−境内案内より−



【 立野神社 (常陸大宮市) 】

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