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中山神社
なかやまじんじゃ
群馬県吾妻郡高山村中山2202
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旧村社 |
群馬県の高山村にある。
高山村役場の東2Kmほどの中山に鎮座。
145号線を東へ進み、500mほど36号線を南に下って
東へ入ると、車道に東面して参道の入り口があり、鳥居が立っている。
鳥居をくぐり、小山へ続く山道を歩いて行くと
参道途中にも石の鳥居。扁額には「八幡宮」とある。
さらに山道を歩いて行くと、当社境内の背後に到着する。
参拝は晩秋十一月の正午頃。
境内は枯葉で覆われて、目に入る茶色と
歩くたびにカサカサと鳴る音と、木漏れ日の暖かさが心地よい、
そんな境内。
社殿は入母屋造瓦葺の拝殿と、後方の垣に囲まれて入母屋造の本殿。
社殿の左手に、大きめの境内社の祠があり、
右側には幾つかの石祠が祀られているが、
各社の詳細は確認していない。
境内は南東向き。境内は小山の南東側にあり、
僕は西側の参道から入って山道をしばらく歩いたが
小山の東側や南側にも境内へ入る参道があるようだ。
創祀年代は不詳。
社伝によると陽成天皇元慶二年(878)
美濃国一の宮南宮神社を勧請した古社で、
『上野国神名帳』に「従四位上 中山明神」とある神社。
現在の祭神の中に、南宮大社祭神である金山彦命は含まれていないが、
南宮大社内の三宮に高山神社という社があり、高山神社の祭神が木花咲屋姫命。
南宮山(中山)山頂には高山神社の奥宮が鎮座しており、
高山という名が、当社鎮座の高山村と関係あるのだろうか。
当地領主である宇都宮氏および中山氏の崇敬篤く、
永禄二年、破敵明神を合祀。
以後、江戸時代は幕府より神領の寄進があった。
明治四十年、字天神鎮座の菅原神社、字八幡畝鎮座の八幡神社、
字諏訪の原鎮座の諏訪神社と各社の末社を合祀した。
参道にあった八幡宮の鳥居も、その頃に移設されたものだろう。
社殿の屋根瓦に巴紋が付いていたが当社の神紋かどうかわからない。
境内には大きな杉の木が何本かあるが
高山村の天然記念物になっている。
西側参道入口 |
参道の鳥居に八幡宮 | 参道 |
境内背後に到着 |
拝殿 | 本殿 |
境内と鳥居 |
境内 | 社殿 |
境内社 | 石祠が散在 |
社殿横から |
中山神社由緒 当社の創祀は不詳なるも、社伝によれば人皇第五十七代陽成天皇の元慶二年(八七九)、 美濃国一の宮南宮神社を勧請するという。その後、第六十代醍醐天皇の延喜年中(九〇一)作成の延喜上野国神名帳に従四位上中山明神と明記される。 往古当地領主宇都宮氏及び中山氏神として代々崇敬篤く、永禄二年、破敵明神を合祀奉祭す。 尓後江戸時代は幕府より神領の寄進有しが、明治初年、皆上地と成る。 明治四十年、神社合併発令により字天神菅原神社同末社、字八幡畝、八幡神社同末社、字諏訪神社の原、諏訪神社同末社を合併す。 大正九年八月二十七日、群馬県告示二〇五号を以て神饌幣帛料供進指定神社と成る。 昭和二十年八月、大東亜戦争終局と同時に占領軍の神道指令により社格及び供進の儀は全廃され以後氏子崇敬者の維持により護持する。 昭和二十七年、宗教法人法の施行により宗教法人中山神社として神社本庁より承認され、 同時に境内地五七五坪余と立木全部無償譲与される。宮守神主は当地中山家遠祖より累代奉仕し来たりしも故ありて大正元年より林氏替りて奉務し現在に至る。 旧社格 村社。神威赫々祈村中安全氏子繁栄 −『平成祭データ』− |