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麻賀多神社
まかたじんじゃ
千葉県成田市台方字稷山1
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式内社 下總國印播郡 麻賀多神社 |
千葉県成田市にある。
印旛沼の東1Kmほどの台方に鎮座。
464号線を西から東へ進み、カーブして南下する場所に
西向きに境内入口の鳥居が立っている。
境内に入ると、鬱蒼とした森。
昼でも暗い参道を歩き、階段を上ると、突然明るい境内で、
中央に社殿が立ち、後方に本殿。
黒壁の本殿が、粋で、ちょっと色っぽい感じだ。
社号の麻賀多(まかた)は、
境内案内によると、麻の産地・麻縣によるもの。
また、掘り出した勾玉を霊代としているからであるとも。
一説には、印旛沼の潟から、真潟であるとも。
さらに、豊城入彦命下毛野君弟真若君から「真若田」からとも。
あるいは、祭神・稚産靈命から、真若であるとも。
ようするに、不明。
創祀年代は不詳。
社伝によると、応神天皇の御代、
伊都許利命が、印旛国造として当地に来たおりに、
麻賀多神を奉斎したのが創祀。
後、推古天皇十六年(608)に、
伊都許利命八世の孫・広鋤手黒彦が、
現在地・稷山に社殿を造営したという。
境内案内によると、伊都許利命の夢の告げに
稚日霊命の霊示をうけ、大木の根本から玉を掘り出して
霊代としたが、その玉は、
日本武尊東征の折、この地方の五穀の実りが悪いため、
その木の根本に7つの玉を埋め、伊勢神宮へ祈願したもの。
当社は、印旛郡下十八麻賀多の総社であり、
式内社・麻賀多神社に比定されている古社。
社地の北方1Kmの船形には、
当社の奥宮があり、伊都許利命の墳墓がある。
神紋は、案内板にも説明があるとおり麻の葉紋。
当社の西方1Km,印旛沼に鳥居河岸というところに
当社の大鳥居が立っているらしいが見ていない。残念ながら。
境内入口 | 鬱蒼とした参道 |
社殿 |
社殿 | 後ろから |
社殿横から |
麻賀多神社由緒
その昔日本武尊東征の折 この地方の五穀の実りが悪いのを知
り 里人を集め大木の虚に鏡を掛け その根本に七つの玉を埋めて
伊勢神宮に祈願いたしましたところ その後は豊年がつゞきまし
た 又三世紀の頃 印旛国造伊都許利命は この御鏡を霊代とし
て祀られる 稚日霊命の霊示をうけ 玉を堀り御霊代として
稚産霊命(伊勢外宮の親神)を祀り 麻賀真の大神と崇め 八代
神津の両郷を神領として奉斎しました その後推古天皇十六年(
608年)新に宮居をこの地に建て 麻賀多の大宮となづけました本地御鎮座以来一千三百六十余年 印旛郡下十八麻賀多の総社 として 筒粥祭 御田植祭 豊年神楽などの古い儀式が継承され 御祭神にゆかりのある古い地名等も現存しています 又明治五年 に郷社に 昭和十年御神本大杉は 県の天然記念樹に 更に近年 御本殿は市の文化財に 神域は史跡に撰ばれ 産業 開運 長寿 厄除けの守護神として崇められていることはよく知られています こゝに伊勢神宮御遷宮記念の当社改修を機に 本碑を奉献して 神徳のいよいよ万民に 光被されんことを祈る次第です −参道石碑より(誤字らしき部分もそのまま転記)− 由緒
−社前案内板より− |
境内左手奥に、御神木の大杉がある。
また、境内には多くの境内社が祀られている。
確認したものは以下の神社。
参道に、祓戸神社(石祠)
境内右手に、天神神社。
本殿後方に、天之日津久神社。
境内左手に、古峯神社、三峯神社、印旛國造神社、
馬來田郎女神社、幸霊神社、青麻神社、猿田彦神社。
境内には多くの境内社 | 本殿後方に天之日津久神社 |
境内に大杉 |
由緒
今から約千三百七十年前
(聖徳太子時代)現在の稷山に新
たに宮殿を建て麻賀多大宮殿と
称された、此の大杉は其の当時に
植えられたもので太さ八m高さ四十m
餘りで其のお姿は誠に威容
其のものであります正に東日本一と
云われる此の大杉(御神木)は遠い遠い
昔の日本の歴史を物語ると共に
かつ多くの伝説を秘めた此の年輪の
雄大さは千古不動の御神威と
御神徳が示されて居ります今日では
特に不老長寿祈願の御神木として
崇拝され昔から多くの祈願が行なわれ
大願成就前には稍えより霊光が輝き
神のお告げがあると云い傳へられて居ります−大杉前案内板より(誤字らしき部分もそのまま転記)− |