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玉村八幡宮
たまむらはちまんぐう
群馬県佐波郡玉村町下新田1
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旧県社 |
群馬県の玉村町にある。
玉村町役場の西500mほどの下神田に鎮座。
354号線(日光例幣使街道)の北側に朱の大きな一之鳥居が立っている。
地図を見ると、境内の北にも354号線が東西に走っているが、
こちらは旧道になるのだろうか。
鳥居をくぐり参道を進むと駐車スペースがあり、
慶応元年(1865)の建造の立派な随神門がある。
当社には戌亥八幡信仰というものがあるそうで、
随神門には「戌年・亥年生れの守り神」とある。
随神門をくぐると広い境内。随神門から敷き石の参道が続いている。
昔、商人風の男が突然現れ、石工や人夫を雇って参道に石を敷きつめ、
名前も告げずに去ったという話が残っている。
参道を進むと石造の二之鳥居があり、神橋を渡ると中門。
中門の奥が社殿のある境内。
拝殿は銅板葺き入母屋造。幣殿で繋がった本殿は流造。
永正四年(1507)建立、慶長十五年(1610)移築された本殿は
国指定重要文化財になっている。
社伝によると、
鎌倉初期の建久六年(1195)源頼朝が新田館から三原へ赴く途中、
鳥川の畔で休息し、その地形が鎌倉の由比ケ浜に似ていたために
上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡八幡宮の御分霊を角渕の地に勧請したのが当社の創祀。
以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。
江戸時代になって、関東郡代伊奈備前守忠次が当地一帯の新田開発に際し
当社に事業の成就を祈り、慶長十五年(1610)無事竣工の後、
玉村鎮守として角渕の地にあった八幡宮本殿 を上・下新田境の現在地に移築修造した。
一説には、現在の境内地は中世の館跡とも伝えられているらしい。
元地には現在も元宮として角渕八幡宮が残っているが、
参拝し忘れてしまった。残念。
正保三年(1646)の日光例幣使街道開設後は、
当地が第一の宿場町として栄えるにつれ、 道中安全や開運招福を願う
一般庶民の崇敬を集め、以来「玉の里の八幡さま」として親しまれているという。
明治六年村社に列し、大正県社に昇格した。
玉村八幡宮公式サイトに以下の話が載っている。要約すると、
昔、代官達に追われた男が境内に逃げ込んだ。
当時の境内は太篠が鬱蒼と茂っていたため、代官の手下たちはこれを刈り取って捜索。
何日間かけても刈り終わらずに少しの刈り残してあきらめてしまった。
実はその刈り残しの藪の中に男が隠れていたが、男は八幡に必死に念じていたという。
運よく逃れた男は懐中の小判を投げながら逃げたという。
後、境内の池の中から小判三枚が発見され、当社の宝物となっている。
境内参道には、
承応元年(1652)の石燈篭や力石、三猿、二宮金次郎像、
御神木の楠木などが点在していて面白い。
三猿は新しく作られた感じだが、社前が日光例幣使街道であることと関連あるのだろうか。
境内は広く、境内社も多い。
参道脇に、淡島神社(人形神社)・猿田彦神社(加恵瑠神社)、
稲荷神社、猿田彦大神、古峯神社などが祀られている。
社殿の左手には国魂神社、右手の池の島には弁財天(厳島神社)。
社殿の後方には、八坂神社、稲荷神社、道祖神、
五神社(飯玉・菅原・住吉・春日・熊野)なども並んでいる。
社頭 |
一之鳥居 | 随神門 |
境内参道 |
二之鳥居 | 神橋と中門 |
境内社殿 |
本殿 | 拝殿 |
社殿 |
国魂神社 | 厳島神社 |
五神社など | 八坂神社など |
神楽殿 | 力石 |
人形神社・加恵瑠神社 | 稲荷・猿田彦・古峯 |
猿田彦大神 | 御神木・楠木 |
三猿 | 二宮金次郎 |
−境内由緒石碑− 玉村八幡宮
創建…鎌倉時代の初頭の建久六年(一一九五)、源頼朝公が新田館より三原の庄(吾妻郡嬬恋村)へ出かけられた折、この玉の里(玉村)を通過され、「往昔神功皇后海中に如意珠を得給ひ征韓凱陣ありて宇瀰の里にて応神帝を安々と御産せ給ふ」とある“玉の縁”によって鎌倉に帰府の後、寵臣上野奉行安達藤九郎盛長をして那波郡角渕の郷に宝殿玉楼を建立し、八月十六日、鎌倉鶴ケ岡八幡宮の別御魂を勧請奉斎なされたのを起源とします。沿革…創建以来“弓矢の神”として源頼朝公を始め武門武将の篤き崇敬を受けた当社は、数次の修理再興が行なわれ今日に到っております。 ○応永十八年(一四一一)四代将軍足利義時の代、関東管領畠山満家によって修理再興される。 ○永正四年(一五〇七)十一代将軍足利義澄の代、破損が甚だしいため、白井城主長尾左衛門尉憲景の臣吉里対馬入道によって再建される。 ○慶長十五年(一六一〇)二代将軍徳川秀忠の代、この地一帯の新田開発の任にあたった関東郡代伊奈備前守忠次によって、角渕より上・下新田の境の現在地に遷座奉斎する。 ○慶安二年(一六四九)三代将軍徳川家光公より朱印三十石の神田を下賜される。以後、前橋藩主酒井雅楽頭の月参を受ける。 ○明治四十一年、本殿が特別建造物として国宝指定を受ける。 ○大正十四年、県社に列する。 御神徳…“八幡さま”とは「応神天皇・神功皇后・比盗_」三柱の神さまの総称で、古来より伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と称せられ、上は皇室より下は庶人に至るまで尊崇篤く、現在全国に八幡さまを祀る神社は、約二万五千社を数えるほどです。その根本社ともいうべきお宮は、鎮護国家の神として奈良時代に早くも皇室の篤い崇敬を得ていた九州大分の宇佐八幡宮です。又、平安時代には石清水八幡宮(京都)・鶴岡八幡宮(鎌倉)がお祀りされました。八幡さまは、源頼義・義家以来源氏の氏神となったことから源頼朝の武家政権の成立と共に、武運長久・一門繁栄を願う武家の崇敬を集め、その信仰は全国に普及しました。また、応神天皇はその治世において治山治水につとめられると共に、大陸文化を採り入れて我国の文化発展に大きな功績を残されたことから、文教の祖・殖産興業の神として信仰されてもおります。さらに、神功皇后は、応神天皇の御母として、その限りない慈しみと深い母性の愛を表されるところから、子育ての神としての信仰も早くから一般民衆の間に広がっております。 以上に述べた御神徳を有する八幡さまをお祀りする当玉村八幡宮には、次のような特殊信仰並びに特殊神事があります。 ☆戌亥八幡信仰…昔の人々は自分の生れ年によって、子年生れとか卯年生れとかいい、その生れ年の干支によって守り本尊があり、その人の一生を見守って下さるものと信じておりました。そして、月の初めや困った時など、何かにつけては自分の守り本尊を祀る社寺へお参りに出かけたものです。ちなみに、「子は千手(観音)丑寅こそは虚空蔵(菩薩)卯は文珠(菩薩)なりと辰巳普賢(菩薩)ぞ午勢至(菩薩)未と申は大日(如来)よ酉は不動(明王)で戌亥八幡」と言いならわし、八幡さまは戌年生れ・亥年生れの人々にとっての守り神と信じてまいりました。これは、『日本書紀』に「(神功)皇后新羅より還りたまふ。十二月、戊戌朔。辛亥、誉田(応神)天皇を筑紫に生みたまふ。」とある応神天皇御降誕の日からきたものと思われる。 当神社においてはこの信仰をもとに、戌・亥年生れの人々によって<戌亥八幡崇敬会>が組織され、毎年旧暦正月の初戌・初亥日に“玉村八幡宮初戌・初亥特別大祭”を執行し、会員各位の厄除家内安全・開運向上を神前に祈願し、以って会員相互の親睦を図っております。 ☆子育て八幡信仰…先にも述べたとおり、八幡さまは子育ての神として広く信仰されておりますが、当神社も“玉の里の子育て八幡”と親しまれ、子育ては無論、子授け、安産祈願の神社として崇敬されております。殊に初宮詣御祈祷では「たまふり神事」を行なって生気に満ちた霊気を付与すると共に、初宮詣手型絵馬を授与しております。この絵馬はお喰い初めの日まで神棚にお祀りいただき、後日わが子の無事成長を願って手型を押し、神社へ奉納していただいております。 ☆道中安全守り神信仰…江戸時代、日光東照宮の大祭に朝廷より毎年派遣される奉幣使のために、中仙道倉賀野より日光街道今市までの日光例幣使街道が新設されると、玉村は街道十三宿中最も大きな宿場町として栄えるようになり、当神社もまた“道中安全の守り神”として往来する人々の信仰を集めることとなりました。時代は移り現代、年々深刻化する交通戦争の問題を前に、事態を憂慮する当神社においては、境内地の一郭に導きの神・道路を司る神として昔より信仰されている猿田彦大神を新たに奉斎して「自動車専用お祓い所」を設け、交通事故撲滅の一助になそうと運転者共々車のお祓いを行なっております。 ☆方災除け信仰…九星五行循環の条理により人それぞれには犯してはならぬ方位があります。しかし、知らぬまに或いは知っていながらもそれを犯してしまつた人々に対し、当神社はその災厄を除くために、方災除けの祈祷を行なうと共に、霊気に満ちた神社のお砂を“清め砂”として授与しております。 ◎大祓神事(茅の輪くぐり)…各町内の山車五台が繰り出す玉村町祇園祭の七月二十二・二十三の両日、多くの露天で賑わう神社境内にて行なわれる神事で“夏越の祓”とも言われます。この神事は、『備後国風土記逸文』に遺された「蘇民将来の故事」にちなんだものとされております。当日は、茅で編んだ“茅の輪”が二の鳥居に設けられ、事前に授与された“身代わり人代”を以って罪穢を祓った参拝者達は、それぞれ茅の輪を三度くぐり抜けて心身の清浄をはかり神前に詣でます。さらに昇殿の上、神代より伝わる『大祓詞』を神官と共にみずから神前に奉唱し、自己本来の生気に満ちた心身の蘇り体験していただく神事です。 ◎ご開帳…六十年に一度、新春に執行される特殊大祭で、ご神体を始め各種宝物を一般参詣者へ拝観させるものです。ご神幸の行列には氏子七郷の人々の供奉があり、かつては雄壮な流鏑馬も奉納されたそうです。また余興には各町内の山車も繰り出し、飾り物・興行物など大変な賑わいを見せます。江戸時代、当神社に参拝した国学者の富田永世は、その著『ふた道にき(日記)』においてその賑わいぶりを「江戸の両国橋のわたり(辺)、難波津の道頓堀のわたりにことならず。まうで(詣で)の人のつどひあひて、にぎはへるさまは都大路をゆくここちす。」と記しています。ちなみに、先のご開帳は昭和三十九年に執行されました。 −『平成祭データ』− |