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御霊神社
ごれいじんじゃ
群馬県前橋市元総社町1901
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群馬県前橋市にある。
新前橋駅の北西2Kmほどの元総社町に鎮座。
上野国国府推定地の東南にあり、総社神社の北西500mほど。
民家の横の参道の奥、鬱蒼とした林が境内。
当社に到着したのは夜明け前。
真っ暗だったので写真は撮れないが、
まず下見の参拝をと思って境内に入ったが外よりもなお暗く、
御霊の社号も頭によぎってしまったので明るくなってから再訪する事にして、
総社神社駐車場に車を止め夜明けを待つ。
少し明るくなった頃、総社神社に参拝し周囲の神社をいくつか回って
昼前に当社に戻って来た。
夜明け前には気づかなかったが、
境内に入ると参道には沢山の庚申塔が並んでおり、
庚申塔に出迎えられているような印象の中、
参道を進むと鳥居があり、鳥居の奥に社殿がある。
社殿の周りや境内左手にも多くの庚申塔。
社殿脇の由緒書きには「千庚申」とある。
まさか千個はないかもしれないが百個は軽くありそうだ。
創祀年代は不詳。
『上野国神名帳』に「従四位下 學校院若御子明神」とある神社。
国府に近く、国府に仕える役人の子弟を教育する学校があり
その側にあった招魂社が当社の起源であるという。
祭神の村岡小五郎忠通は平安時代の平氏一門の武将で
三浦氏、鎌倉氏、長尾氏など祖。
当社由緒によると、奥州の豪族安倍氏征討のための
前九年、後三年の役に参加して戦死し、御霊の神号を得てのち、
神奈川鎌倉に御霊宮を建立して祀られ、長尾氏一族の氏神となった。
建武四年(1337)長尾氏一族の長尾景忠が上野国守護代となり、
景忠の長子清景は白井城主となり
四男忠房は父景忠と共に国府を城郭化して蒼海城として当地を支配。
貞治二年(1363)忠房は鎌倉長尾郷より御霊宮を勧請して、
若御子明神に合祀し、現在地に創立して惣社長尾氏の氏神とした。
祭神の鎌倉權五郎景成は、社伝によると村岡小五郎忠通の五男。
後三年役で金沢の柵(秋田)を攻めた時、右目を射られながらも活躍したという武将。
一般には平忠通(村岡小五郎忠通)の孫だと云われているようだ、
現在、鎌倉御霊宮の祭神は、村岡小五郎忠通ではなく鎌倉權五郎景成(景正)。
鎌倉御霊宮の御霊の社号は、御霊信仰によるものとか、
関東地方の平氏五家(大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉)の祖霊を祀るとか
鎌倉權五郎景成の五郎によるとか色々な説があるらしい。
祭神の上毛野君田道は豊城入彦命五世の孫。
仁徳天皇の頃、新羅の反乱をおさえた人物。
後に蝦夷の反乱征討に派遣されたが伊峙の水門で戦死した。
その後、田道の墓を蝦夷が荒らした時、大蛇が出現して食らいつき
大蛇の毒で多くの蝦夷が死んだと『日本書紀』にあるが、
当地とどのような関わりがあるのかは調べていない。
社殿の屋根に花のような九曜紋のような金の飾りが付けられていたが、
九つの丸い星ではなく星の中に模様があるようだ。
写真を撮って拡大してみたが巴紋に似た形状のようだ。
九つの巴紋を図案化した九曜巴は長尾氏の家紋らしいので
長尾氏縁の当社の神紋に間違いないと思うが、
写真が不鮮明なので、あるいは違うかもしれない。
社頭 | 境内参道 |
境内 |
社殿 | 社殿扁額 |
社殿 |
沢山の庚申塔 | 境内 |
御霊神社と長尾氏由緒
一、御祭神、豊城入彦命五世の孫、田道(大蛇に化身して風呂沼に住んでいた傳説の人)外上野の国
に殉ぜる霊神、長尾氏の祖村岡小五郎忠通と五男鎌倉権五郎景政一、例祭日 十月初亥、現在は十月十九日 一、創立年月は不詳なり、社傳に依ると往古此の地に上野国々府あり、 国府に仕える役人の子弟を教育する学校あり、其の傍に招魂社あり て上野国神名帳西群馬郡の内に従四位下学校院若御子明神と記載あ るは彼の招魂社なりと傅えり。桓武帝第五の皇子葛原親王より八世の 後胤を村岡小五郎忠通と云い、相州に住し鎮守府将軍鎌倉権守と稱す、 五男を景政と云い、前九年、後三年の奥州の役には忠通副将格にて数 々の戦功立てたり、忠通寛治三年七十余才にて陣中に病死す、 景政忠通の軍を引卒して先登にたち戦う、其の後鳥海と矢記ある矢 、景政引手の目にさゝる、景政其の矢をぬき取り、数日後其の矢に て鳥海を討取れり敵味方共に其の勇感賞せざる者なしと、奥州平定 して朝廷は忠通に御霊の神号を賜る、一族相州長尾郷に一宇建立して 御霊宮と稱し長尾一家の氏神とす、景政より、四世を定景と云う。 治承四年頼朝兵を誉ぐ、定景平家方と頼朝を攻むれど後捕えられ三浦 義澄に預けられ後許免されたり、承久元年一月二十七日源実朝右大 臣拝賀の爲鶴ケ岡八幡宮参賀の帰り道石段にて頼家の子別当公暁に殺害 されたり、北條氏、公暁討伐を三浦義村に命ず、義村は直に長尾定景 に命ず、定景雑賀次郎等五人の力士を引卒して鶴ケ峯後面の峯にて 公暁を討取れり、兼て北條氏は三浦氏も頼朝の遺臣なれば之を亡ぼ さんと其の機会を伺い待てり、宝治元年三浦氏も其の計畧にはまり、 三浦長尾両氏一族二百七十余人頼朝公霊廟法華堂前で自害せり、 之を宝治の乱と云う。元弘三年北條氏滅び後醍醐天皇の建武中興の 世となり、足利尊氏直義兄弟も天皇方なれば直義成良親王(四才)を 奉じて元弘三年関東十ケ国の行政司法権を委任され鎌倉え入った、 上杉重能を直義の家宰とす、長尾景忠は建武四年(一三三七年)に は上野守護代となり後越後守護代も兼務せり、後弟景恒が越後守護 代となり越後長尾の祖となる、景忠の長子清景は白井城主となり四男 忠房は父景忠と共に国府を城郭化して蒼海城と稱し惣社長尾九代二 百十余年の基を築けり、直義は尊氏に毒殺され養子基氏の頃貞治二 年頃関東も平穏に治れり、忠房鎌倉長尾郷より御霊宮を分霊して、 若御子明神に合祠し現在の地に創立し惣社長尾の氏神とす、某郷土史 研究家先生は、総社神社も長尾氏が旧地より現地に移転し、神社裏 の貞和五年の奉塔も長尾一族が建立した物であろうと推定して居り ます、永禄九年頃蒼海城も武田氏の攻畧する所となり御霊宮も蒼海城 と共に跡形なく破壊され顕方の二男忠治、古市宿より江戸時代の始 め今の地に移り御霊宮を再建修険者となって中将坊としょうし数代 の後長尾山東覚院と云い明治二十二年長尾将斉の時赤石中政氏の助力に 依って元惣社村各町内の寄付によって再建となりぬ、又境内の千庚申 は殿小路町阿弥陀寺町の世話人によって万延元年庚申年に祭礼が出 来る様万延元年以前三年から石屋に依頼して元総社村中、大友村石 倉村全戸から一体づつの庚申塔の寄付を仰ぎお祭は毎年の初庚申日 以上再建に当り記録す。 −境内由緒書[原文ママ]− |