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氷川女體神社
ひかわにょたいじんじゃ
埼玉県さいたま市緑区宮本2−17−1
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埼玉県さいたま市にある。
新見沼大橋有料道路の北500mの宮本。
用水路沿いの道に鳥居があり、階段を上ると静かな境内。
雨の日の早朝だが、近所の方が何人か散歩&参拝に来られていた。
社伝によると、崇神天皇の御代、出雲から勧請して創建。
大宮・氷川神社を男体とし、当社を女体宮とする。
関東には、このように男神・女神を対峙して祀る神社が多い。
『大日本地名辞書』では、式内・多氣比賣神社の論社とされている。
拝殿の額に、武蔵国一宮と記されているが、これについては、
氷川神社・当社・中山神社(簸王子社)の三社を総称して
氷川神社とした場合のものだろうと思われる。
神紋は、氷川神社と同じ「八雲」。
賽銭箱に付いていた紋を撮影しサンプルとした。
境内社殿 |
境内社 | 社殿 |
境内 |
参道と鳥居 | 本殿 | ピントがボケボケだが 拝殿扁額 |
境内入口から、鳥居前の用水路に橋を渡り、御幸道を歩くと、磐船祭祭祀遺跡がある。
池の中に丸い島を築いた祭祀場跡。
磐船祭祭祀遺跡へ続く御幸道 |
小さな橋を渡る | 磐船祭祭祀遺跡 |
氷川女体神社
所在地 浦和市宮本二丁目
氷川女体神社は、県内屈指の古社で大宮氷川神社とと
もに武蔵国一宮といわれてきた。社伝では、崇神天皇の
時につくられたと伝えられている。祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穗津姫命が合祀さ れている。 大宮の氷川神社(男体社)、大宮市中川の中山神社(簸 王子社)とともに見沼とは深い関係にあり、祭礼の「御 船祭」は見沼の御上で行われていた。しかし、享保一二 年(一七二七)に見沼が干拓され、これに代わって出島で 「磐船祭」が行われるようになった。 この氷川女体神社には鎌倉、室町時代の社宝が多く、 三鱗文兵庫鎖太刀(国認定重要美術品)、牡丹文瓶子(県 指定有形文化財)、大般若波羅蜜多経(同)、神輿(同) は特に著名である。 江戸時代には社領五〇石が寄進されており、現本殿は 徳川家綱によって再建された。 また、境内の社叢は市指定天然記念物であるとともに 県のふるさとの森として保護されている。 −社頭案内− 浦和市指定史跡 氷川女体神社磐船祭祀遺跡
指定年月日 昭和五十四年三月二十八日
氷川女体神社のかつての最も重要な祭祀は御船祭で した。しかし、享保十二年(一七二七)の見沼干拓に よりそれが不可能となり、代わりに社頭の旧見沼内に 柄鏡形の土壇場を設け、周囲に池をめぐらし、ここに その祭祀を移して行うことになりました。それが磐船 祭です。実際にここで祭祀が行われたのは江戸時代中 期から幕末ないしは明治時代初期までの短い期間です が、その祭祀は見沼とは切り離せない古来からのきわ めて重要なものです。この遺跡は保存状態も良く、ま た、これを証すべき文書や記録も残されており、史跡 としての価値が高いといえます。 面積 三九七一平方メートル 祭場(四本竹跡) 径三〇メートル 御幸道 長さ六五メートル なお、昭和五十七年度に、復原整備事業を実施しました。 −社頭案内− 三室氷川女體神社 浦和市宮本鎮座。 当社は崇神天皇の御代に出雲杵築の大社を勧請した古社で、 武蔵国一宮として見沼のほとりに鎮座している。主祭神は奇稲田姫命で、 大己貴命と三穂津姫命を配祀している。当社の御手洗瀬である見沼を囲み大宮氷川神社(男體社)、 大宮中川の中山神社(簸王子社)とともに三社深い関係にあり「三室」を伝えてきた。 古代、女神を祀ることや社殿が東方に向いているなど、その創立の由緒を偲ばせている。 中世以来、武門の崇敬を集めており、これらに所縁のある宝物も多い。 徳川家康から拝領五十石を寄せられ、また徳川家綱によって現存する社殿も建てられた。 古来からの御船遊神事は見沼干拓後、磐船祭として行なわれ、その遺跡が現存している。 また、暖地性植物が繁茂する社叢は、天然記念物であり、故郷の森にも指定されている。 −『平成祭データ』− |
【 氷川女体神社 氷川女體神社 (さいたま市) 】