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諏訪神社
すわじんじゃ
群馬県高崎市箕郷町東明屋511
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群馬県高崎市にある。
信越本線・高崎駅の北西12Kmほどの箕郷町東明屋に鎮座。
榛名山の東南麓、長野氏の居城・箕輪城跡の南東に境内がある。
小学校の北、26号線が二股に分かれる場所に、
東向きに境内入口があり、参道入口は26号線に面している。
参道を歩くと石鳥居があるが、扁額には「満行宮」とある。
満行宮は榛名神社の別名だが、当社には村内にあった榛名神社が合祀されており
その当時の鳥居を移築したものだろうか。
参道を進み、道路を横切ると境内入口。
「諏訪神社」と刻まれた社号標が立っており、
境内入口の石鳥居には「諏訪大明神」。
鳥居をくぐり参道を進むと、社殿のある境内。
中央に拝殿があり、拝殿の後方、斜面の上に本殿の覆屋がある。
覆屋内の本殿は文政五年の建造物で優れた彫刻があるらしい。
拝殿の右手奥に、「榛名神社」と刻まれた石碑がある。
榛名神社を合祀した記録なのだろう。
拝殿の左手に鳥居があり階段を上ると、
本殿の横に小さな石祠に祀られた天満宮がある。
その鳥居の左手に「石上神社」と刻まれた大きな石碑がある。
これは石上神社を合祀した記録だろう。
石上神社の隣りに小さな石祠があるが、稲荷社だろうか。
境内や参道には、他にも「秋葉大権現」「御嶽山大神」などの石碑や、
いくつかの石祠が祀られており、可愛い夫婦の道祖神もある。
創祀年代は不詳。
境内の由緒書きによると、箕輪城落城後に当地に勧請された旧村社らしい。
ということは戦国時代から江戸初期の創祀ということだろう。
同じく由緒書きによると、当社に合祀されている石上神社は
『上野国神名帳』に「従四位下 石神明神」とある古社。
箕輪城の鬼門寺で、在原業平の創建とも伝えられる石上寺の鎮守として、
貞観十六年、大和国山辺郡石上神宮より布瑠明神(石上神)を勧請したもの。
明治維新後、神仏分離により石上寺境内の外に祀られていたが
太平洋戦争後、当社・諏訪神社に合祀されたらしい。
ただし、『上野国神名帳の研究』によると、
在原業平の子孫と称した長野氏が、箕輪城築城にあたり、
箕輪城の鬼門に石上寺を建てたとあり、
上野国神名帳記載の石神明神を倉渕町鎮座の石上神社にあてている。
当社に合祀されている榛名神社は、
石上寺記に「当山北に満行権現霊威を現す云々天暦年中神託があって祀る」とあり
平安時代の創祀のようだが、石上神社同様に戦後、当社に合祀された。
石上神社が上野国神名帳記載の古社であるなら、
上野国神名帳の群馬西郡の項に、
「従四位上 椿名本戸明神」「従四位上 椿名若御子明神」
「従五位上 椿名大取明神」など、榛名に関する神名がいくつかあるが
この榛名神社もその何れかである可能性はないのだろうか。
拝殿の屋根に三つ巴紋が付けられていた。
当社の神紋かどうかは確認できていないが、
他に紋らしきものも無かったので掲載しておく。
参道入口の鳥居 | 扁額には満行宮 |
境内入口 |
鳥居 | 参道 |
境内社殿 |
拝殿 | 本殿 |
石上神社石碑と稲荷社か |
天満宮 | 榛名神社石碑 |
道祖神 | 境内社(未確認) |
諏訪神社誌
当社の祭神は建御名方命で その創建については明らかでなく箕輪城落
城後にこの地に勧請せられたものと思われる 境内石祠に延宝八年(三
一八年前)や享保年間のものがあり 本殿は戦後の建立であるが 内宮
は江戸文化の優れた彫刻によるものである その棟札に大棟梁當国新井
村阿左見日向藤原光督等の名があり 文政五年十二月(一六八年前)上
棟と記され 又氏子に伝えられている獅子舞(箕郷町指定無形文化財)
の太鼓に天保(一六〇年前)の年号がある明治年間村社に列格し 戦後に村内北に鎮座の石上神社(布都御魂神) と榛名神社(火産霊神 埴山姫神)の両社を合併し 昭和二十八年四月 二十二日宗教法人諏訪神社として設立登記せられた 因に石上神社(布留社)は上野国神明帳に従四位下石神神社とあり 貞 観十六年(一一一六年前)大和国山辺郡石上神宮より村内北の石上寺境 内に勧請され 明治二年神佛分離により別に社地が定められた 榛名神 社(満行宮)は石上寺記に当山北に満行権現霊威を現す云々 天暦年中 神託があって祀るとあって 両社共に平安朝の創建で何れも千年を超ゆ る古い伝統のある神社であった 境内社には稲荷社 天神社その他多数の石祠があり 例祭は現在春四月 一日と秋十月九日に執行されている −境内由緒石碑− |