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小野神社
おのじんじゃ
東京都府中市住吉町3−19−3
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式内論社 武蔵國多磨郡 小野神社
御祭神 |
府中市。多摩川の左岸、住吉町にある。
中河原駅から5・600m北西の住宅地にある公園の横。
道路からは少し奥まった所にある。
境内と公園がつながっており、子供達が遊んでいた。
境内には木々が少なく、少し明るすぎる。開放的な公園ではあるが。
創祀年代は不詳。
式内社・小野神社の論社の一つ。
多摩川をはさんだ多摩市に、同じく小野神社があり、
そちらは、武蔵国一宮。同じく式内社・小野神社の論社だ。
現在は多摩市の方が有力で、境内も広く社殿も立派だが、
確たる証拠があるわけではないようだ。
多摩川の氾濫により社地が移動し、遷座を繰り返した結果、
二社になったとする説があり、
また、府中市は元社で、多摩市に遷座した跡とする説もある。
祭神は、『江戸名所図会』に「瀬織津比咩 一座」とあり、
本来の祭神だと思われる。
公園の横の参道 |
社号標 | 鳥居 | 境内 |
社殿 |
本殿 | 拝殿 |
本殿後ろに境内社 | 本殿後ろから | 拝殿扁額 |
三代実録の光孝天皇元慶八年(八八四)七月十
五日癸酉の條に、「授二武蔵國……従五位上小野神正五位
上一。」とあるが、この小野神が、どこの小野神をさすかは
明白となっていない。式内社の小野神社には二社の論社が
ある。すなはち、多摩川の中流をはさんで左岸と右岸にそ
れぞれ小野神社が鎮座しており、互いに、式内社を主張し
ている。その一社は一ノ宮の小野神社、で、今一社は住吉
町の小野神社(小野宮)である。両社とも創祀を安寧天皇
十八年二月と伝えている。たとへば、正和二年(一三一三)
秋七月、神主澤井佐衛門助藤原直久の誌した、『式内社小
野神社由緒』によると、次のようにある。
人皇三代、安寧天皇ノ御代、御鎮座、祭ル所天下春命大神也、此御神ハ、神代ニ有テ、天孫饒速日命、始テ
河内國土哮ケ峰ニ降臨ノ時、天上ヨリ供奉随身シ玉フ
三十二神ノ中、一神ニマシマシ、出雲臣祖、二井諸忍野神狭命ノ十世兄武日命、始テ此懸ノ國造ト成玉フ
時、御祖神タル故、此地ニ勧請鎮守トナシ給フ、
また、住吉町の小野神社の境内に建っている「小野宮廟
碑」(寛政七年〈一七九五〉九月、鳩谷孔平信敏撰、)や
『武蔵國総社六所宮縁起並社傅』(寛永元年〈一六二四〉
五月、猿渡盛道編)なども、上記と大同小異の内容で当社
の創祀について述べている。住吉町の小野神社の方は、総社六所宮の崇敬がたかまる と共に衰微したが、これに対し、一ノ宮の小野神社は太田 道灌や小田原北條氏などの寄進をうけて栄えた。すなは ち、太田道灌は当社の社殿、末社等を造営したという。 が、文明年間、上杉憲定と同定政が関戸河原で合戦した 際、類火にあって炎上した。慶長十四年(一六○九)十二 月、社殿を再建。慶安年中には、朱印十五石を付せられ た。寛文七年(一六六七)三月、社殿を修造。享和年中に は、当社の古祠たることの碑を建立した。 明治六年十一月、郷社に列せられ、(住吉町の小野神社 もこの年郷社に列せられた。)大正十五年三月、類火にあ い炎上、現在の社殿はその後に再建されたものである。 −『式内社調査報告』− |
【 小野神社 (府中) 】