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大胡神社
おおごじんじゃ
群馬県前橋市河原浜町615
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旧郷社 |
群馬県前橋市にある。
上毛電鉄大胡駅の北1Kmほどの河原浜町に鎮座。
荒砥川の西、大胡城跡の北。幼稚園の向かいに道路を挟んで南向きの入口がある。
階段をのぼり参道を進むと鬱蒼と茂る林の奥に境内がある。
参拝は十一月、晩秋の天気の良い、木漏れ日が眩し平日の午後。
参道を進むと左手に手水舎があり、正面に社殿。
社殿の前に大きな御神木が聳えている。
境内の案内板では、当社の無患子(ムクロジ)は樹齢300年で、
前橋市指定天然記念物だそうだが、この御神木のことだろうか。
神社境内には天然記念物や保存樹に指定されている立派な木が多いが、
樹木のことに関して全く無知なので、
そのような立派な木に出会うたびに、勉強しようと思うのだが。
拝殿は銅板葺入母屋造平入り。後方の本殿は入母屋破風造。
境内の右手に神楽殿があり、当社の太々神楽は、前橋市指定重要無形文化財。
もとは足軽町に伝えられていたが、明治の神社合祀で
足軽町神明社の神楽殿が当社に移転されたそうだ。
また、当社所有の大正時代の算額は前橋市指定文化財になっている。
創祀年代は不詳。
赤城大明神の里宮として、近戸明神と称された神社。
社伝によると、当社の南にある大胡城内に玉蔵院という
二之宮赤城神社の別当があったことから、
南北朝の頃から、二之宮赤城神社の系統の近戸明神として存在していたらしい。
その後、天正十七年十一月九日、
大胡城主大胡常陸介高繁が三夜沢赤城神社の神官奈良原紀伊守に出した手紙があり、
大胡城の守護神として、赤城神を近戸大明神として祀りたいので
奈良原父子のどちらかが来て祀って欲しいという内容であることから、
天正以後は、三夜沢赤城神社の系統の近戸明神と変化したようだ。
明治四十二年六月五日、大胡町地内の全ての神社を合祀して、
近戸明神から大胡神社と改称。
さらに前橋市堀之下町の熊野神社など、
総数二十二社にも及ぶ多くの神社を合祀したため、
現在の祭神も四十五柱、相殿八柱となったらしい。
残念ながら全ての祭神の名は調べていないが、
『平成祭データ』には三十一柱の名が記されている。
拝殿の幕や屋根に桐紋が付けられていたので、当社の神紋だと思う。
本殿の後ろには、二十数個の石祠と神庫があるが、
境内社に関しての詳細はわからない。
『全国神社名鑑』には末社六社となっている。
境内入口 | 参道鳥居 |
参道 | 社殿 |
境内 |
本殿 | 拝殿 |
多くの石祠 | 神楽殿 |
大胡神社 由緒
大胡神社の由緒を示す一つの古文書がある。「一筆致啓上侯 御堅固之段珍重 奉存侯然者其地 赤城大明神当城之 鎮守ニ近戸大明神と 奉祭度侯間其元 父子之中此方江 引越神祭奉 頼侯万事家来 (折紙)口上申入侯謹言 常陸介 天正十七年十一月九日 奈良原紀伊守殿」大胡城主大胡常陸介高繁が三夜沢赤城神社の神官奈良原紀伊守に出した手紙である。大胡城の守り神として、赤城神社を近戸大明神として祭りたいので奈良原父子のどちらか来て祭りをしてもらいたいとの内容である。天正十八年の夏には大胡藩主牧野氏に変わるのであるが、近戸大明神(大胡神社)は奈良原紀伊守で現在に至っている。
しかし、これ以前に大胡城内に神社があったと推定している。即ち城内に玉蔵院という寺院があった。この寺は二之宮(現前橋市二の宮町)赤城神社の別当寺であった。
このことから古くは二之宮赤城神社の系統の近戸大明神で、春秋のご神幸の休み場所として南北朝時代から存在したと考えられるのである。大胡氏も城を守り切れず山上郷右衛門や金山の由良氏の輩下増田某などの居城の時代を経て、ここに戻って改めて赤城信仰を考える時に、三夜沢赤城神社ということになったのであろう。
祭神は大巳貴命、豊城入彦命である。明治四十二年六月五日に大胡町地内の神社という神社の全部を合祀した。さらに前橋市堀之下町の熊野神社その他まで合祀せた。実に二十二社にも及ぶ多くの神社であった。そこで祭神も数多く追加され四十五柱、相殿八柱となる。
祭日は古くから五月一日であった。山から春になると山の神が下りてきて田の神となり農耕の豊作であるよう祈念したのである。太々神楽は河原浜の人たちと足軽町の人たちの交互で奉納した。古くからの由緒あるものでお面も数が多い。この神楽は下大屋(現前橋市)産泰神社にも指導し同社の神楽復興に助力した。
明治四十二年六月に近戸明神を改称して大胡神社とした。近戸は赤城の神を近いところに勧請したことを意味する。参道も東側にあったが、昭和十八年に現状のような南参道に付け替たのである。
−赤城信仰− −『平成祭データ』− |