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今城青坂稲實池上神社
いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ
埼玉県児玉郡上里町大字忍保字稲実225
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埼玉県の上里町にある。
高崎線・神保原駅の北1.5Kmほどの忍保(おしぼ)に鎮座。
駅前の道を北上し、17号線を越えて突き当たると石神社があり、
左手の道を進むと当社の社域の杜に到着する。
杜の前に社号標が立っており、入口には石の鳥居。
鳥居をくぐり木漏れ日の中の参道を進むと社殿のある境内。
左手に手水舎があり、赤い両部鳥居が立っている。
鳥居の扁額には「延喜式内 今城青坂稲實池上神社」とあるが、
「坂」の土偏が師の偏となっており「阪」に近い文字。こういう文字があるのだろうか。
その鳥居をくるぐと正面に社殿。
拝殿は瓦葺入母屋造で、後方の本殿は覆屋の中。
参拝は四月の後半。早朝日の出の頃。
朝日が射し込む、清々しい境内だった。
創立年代は不詳。社伝によると和銅四年(711)勧請の古社で忍保庄の総社。
式内社・今城青坂稲實池上神社の論社の一つ。
今城青坂稲實池上神社の論社は多いが、鎮座地の小字が稲実であり
当社は有力な論社とされている。
「今城」は「新来」とされ、渡来系氏族が当地に稲魂を祀った神社と考えられている。
元弘年中(1331〜1334)新田義貞が金窪に大瑘城を築いた際、
城の艮(東北)にあって荒廃していた当社を再興し、城の鬼門除けとした。
天正十年(1582)神流川合戦の兵火により社殿を焼失。
天正十九年(1591)川窪与左衛門信俊が社殿を改築し神田を寄進。
元禄十一年(1698)信俊の孫武田越前守信貞が丹後国に転領となり衰退。
社号も稲実から転化して稲荷と称されるようになった。
その後、地頭からの寄進や社殿修繕を受け社運を盛り返していった。
明治五年旧称に復して村社に列し、明治三十二年県社に昇格した。
境内左手に境内社の祠が四社。
左から二つ目は扁額に「八坂神社」とあるが、他の社は確認できなかった。
『平成祭データ』には八坂神社(須佐之男命)の他に、
宮西神社(醫祖大神)と雷電神社(八雷神)が記されている。
社殿の屋根に抱き稲の紋が付けられていた。
稲魂を祀る神社に相応しい神紋だと思う。
社頭 |
鳥居 | 参道 |
参道 |
鳥居 | 鳥居扁額 |
境内 |
拝殿 | 本殿覆屋 |
境内社(右は八坂神社) | 境内社 |
境内 |
神楽殿 | 御神木 |
第62回伊勢神宮式年遷宮記念 今城青坂稲実池上神社
上里町忍保二二五
−境内由緒書− |