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蒲田八幡神社
かまたはちまんじんじゃ
東京都大田区蒲田4−18−18
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旧村社 |
東京都大田区にある。
京急蒲田駅の西側数十mの場所に鎮座。
正式名は「八幡神社」らしいが、
蒲田にあるので、通称、蒲田八幡神社。
境内入口は南側。
生垣の奥に赤い鳥居があり、参道が北に延びている。
参道右手に神輿庫らしき車庫のような建物があり
氏子の町内会や自治会の名前が付いていた。
参道の左手には、東向きに満願火伏稲荷神社が鎮座。
参道をまっすぐ進むとコンクリート造の社殿。
拝殿の後方に、二つの屋根を前後に並べた八幡造の本殿があり
本殿の右手に、天照皇大神と日本武尊を祀る天祖神社。
以前、羽田から早朝の飛行機に乗るため蒲田のホテルに泊まり
日の出の頃に参拝したことがある。
それほど広い境内ではないが、
町の中の綺麗な神社という雰囲気。
商店街なども近いので、大事にされているような感じだ。
社伝によると、慶長五年(1600)の創祀。
豊前国宇佐八幡宮から勧請された神社だが
境内に小円墳などがあり、古くから開かれた蒲田の地で
なんらかの聖地であったと思われる。
慶長五年(一説には平安の頃)の新宿分村に際し、
薭田神社に納められていた神体像三体の中から
春日の像を移し、神体として鎮祭したという。
明治の神仏分離により春日像は別当妙安寺に遷され、
明治五年村社に列した。
昭和二十年戦災によって焼失。
戦後、新宿八幡社を、蒲田八幡神社と改め
昭和三十三年社殿が再建された。
八幡神社なので神紋は三つ巴。
社頭 |
鳥居 | 神輿庫? |
満願火伏稲荷神社 | 参道 |
拝殿 |
社殿 |
八幡造本殿 | 天祖神社 |
蒲田八幡神社由緒
案ずるに、當地既に新石器時代より住民の生活する ところとなり、縄文時代とともに原始信仰の撥祥 をきたし、農耕の興りし彌生式文化時代を経て、 斎場の形作られし聖地なり。 慶長年間、新宿分村に際し、行基作の神體三座の 中、春日の像一體を薭田神社より分ち、鎮守神體 とせしに神霊あらたかなりしと傳ふ。 明治維新となり、神佛分離により春日の像を別當 妙安寺に安置す。 昭和二十年四月十五日
戦災に遭遇せるも忽ち再建の氣運勃興せり。
戦後、復興し行く蒲田の中心なるを以て、昭和二十
四年八月新宿八幡神社を改め蒲田八幡神社と稱へ、
氏子崇敬者の奉賛に依り昭和三十三年八月八日御社
殿復興遷宮祭を執行す。−社頭由緒書− 蒲田八幡神社由緒 御由緒 当社の創祀は不詳であるが、境内に小円墳があったこと、又言い伝えや伝説、史実等から推察して相当古くから聖地として村民の信仰の場であったものと思われる。思うにこの地は、多摩川の河口に当り、水の便よく、交通の要衝にして物資の集散地ともなり、都からの文化の伝播も最も早く、関東に於ける文化の先進地であった。従って縄文式文化時代の原子信仰と共に形づくられた斎場が、時代と共に推移して今日の姿になったものと思われる。蒲田村より新宿分村に当り、鎮守の神として、稗田神社から行基作の神体三座のうち、春日の像一体を分ちお祀りしたところ、霊験あらたかであったという。新宿分村は慶長の頃と言われているが、一説に平安末期か鎌倉初期とも言われ、決定的な資料は残されていない。明治維新となり、神仏分離により、春日の像は別当妙安寺に移されたが、戦災により焼失した。 昭和二十年四月十五日戦災により社殿は灰燼に帰したが、忽ち再建気運が勃興した。戦後復興していく蒲田の中心にある所から、昭和二十四年八月新宿八幡神社を改め蒲田八幡神社と称えるようになった。氏子崇敬者の奉賛により現在に見る壮麗な社殿が竣工し、昭和三十三年八月八日御社殿復興遷宮祭を執行した。昭和四十三年御社殿復興十周年記念事業(社務所ロビ−増築)竝記念大祭、昭和五十三年御社殿復興二十周年記念事業(鳳凰殿増築)竝記念大祭、、昭和五十八年御社殿復興二十五周年記念事業(神社大神輿竣工)竝記念大祭を執行した。 −『平成祭データ』− |
【 蒲田八幡神社 (大田区) 】