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王子稲荷神社
おうじいなりじんじゃ
東京都北区岸町1−12−26
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東京都北区王子にある。
王子駅の北西500mほど。幼稚園の隣に境内がある。
道に面して門があり、門の奥に鳥居と階段。
階段を上ると正面に、華やかな社殿。
新幹線の車窓からもこの社殿は確認できる。
創祀年代は不詳だが、
康平年中、源頼義、奥州追討のみぎり、
深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇敬した神社。
つまり、関東の稲荷神社の総元締めというお宮。
毎年、大晦日の夜に、関東一円の稲荷神社から
狐たちが集まって、参詣したという伝承が残っている。
当社の狛狐は、鍵を持っているが、これは
関東の稲荷を管理していたという証だろうか。
古くは、岸稲荷と称していたが、
元亨二年(1322年)領主豊島氏が紀州熊野神を勧請し、
王子神社を祀ったことから、王子という地名となり、
当社も王子稲荷神社と称するようになった。
階段の下、右手には市杵島神社の祠。
社殿の右手奥には、本宮社があり、
横に「御石様」と呼ばれる石が祀られている。
この石は、願い事を唱えながら持ち上げて、
その軽重によって占うというもの。
京都の伏見稲荷神社の奥宮にも同じように重さで占う
「おもかる石」がある。
御石様の横から狭い階段を上ると、狐穴の跡がある。
穴を覗いてみたけど、奥はよく見えなかった。
境内入口 | 鳥居と階段 | 階段下の市杵島神社 |
参道階段 | 拝殿 | 本殿 |
社殿 |
拝殿 | 境内社 |
本宮社 | 御石様 | 御石様 |
階段上に狐穴 | 石祠 | 狐穴 |
王子稲荷神社由緒記
御祭神は、世に「稲荷大明神」と称え奉る衣食住の祖神で、古来産業の守護神として、広く庶民がおまつりする神さまであります。王子稲荷神社は、今から一千年の昔「岸稲荷」と称して、この地にまつられたお社で、社記に、『康平年中、源頼義、奥州追討の砌り、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇む』と、伝えており、西暦一〇六〇年の平安朝中頃には相当の社格を有していたものと考えられます。 元亨二年(一三二二年)に近隣の地に領主豊島氏が、紀州の熊野神社を勧請し王子神社を祀った処から、地名も王子と改まり、当社も王子稲荷神社と改称されました。 小田原北条氏は当社を深く尊崇し、朱印状を寄せており、江戸時代には、徳川将軍家の祈願所と定められて大層栄えました。 代々の将軍の崇敬は、極めて篤く、社参は勿論、三代将軍家光公は、寛永十一年に、社殿を造営し正遷宮料として金五拾両、その他諸道具一式を寄進せられ、次いで五代将軍綱吉公は元禄十六年に、十代将軍家治公は天明二年に、それぞれ、修繕を寄進されましたが更に、十一代将軍家斉公は文政五年(一八二二年)に、社殿を新規再建されました。 八棟造り極彩色の華麗な社殿は、江戸文化の最高潮、文化文政時代の粋を伝え、当時の稲荷信仰の隆昌が偲ばれます。 然し、惜しいことに、この度の大戦中、昭和二十年四月十三日、空襲によって本殿などを大破しました。 その後、昭和三十五年に本殿の再建が行われましたので、現在の社殿は、拝殿幣殿は文政五年の作、本殿は昭和の作ということになります。 又、昭和六十二年には、社殿の総塗り換えが百六十五年ぶりに行なわれ、神楽殿も新規に建て替えられました。 翻って、沿革を尋ねますと、江戸時代は、所謂「神仏習合時代」で、当社の御祭神についても、新編武蔵風土記、江戸名所図絵等に「本地は聖観世音、薬師如来、陀枳尼天なり」と記されています。 王子稲荷神社は、明治維新まで禅夷山東光院金輪寺が別当として王子権現(王子神社)と共に管掌し、住民は「王子両社」と称して等しく、氏神として崇めて来ました。現在は明治政府の神仏分離政策により廃仏棄釈が行なわれ、金輪寺そのものは二坊を残して廃寺となっています。 当社へは遠方よりの参拝者が多く、諸方の街道筋に「王子いなりみち」という標石や、奉納石灯籠が建てられて、参詣人の道しるべを務め、又、飛鳥山の桜の花見をかねての行楽客もあり、門前には茶店、料理屋等が数多くありました。そのうちの一軒は今でも現存しており、道しるべの灯籠の一部は境内に移築保存(昭和三十二年)されています。 境内は台地の中腹にあって、約二千坪、今では市街を見渡す眺めのよい高台ですが、昔は、こんもりと茂った杉の大木に包まれて、昼の暗く、山中には沢山の狐が安住し、神使として大切にされていました。その跡は、今も、「お穴さま」として保存されています。狐に因む伝説は数多くありますが、料理屋と狐を舞台にした「王子の狐」の落語は当時の模様をよく伝えています。 又、江戸名所図絵、東都歳時記、新編武蔵風土記に記載する、゛毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しく、ここに集まり来る事、恒例にして今に然り。その灯せる火影に依って土民、明年の豊凶を卜す。云々゛という伝説は、最も有名で「装束榎」は、これらの狐が、身仕度をした処と伝えられる場所で、゛装束の榎まで待つ王子なり゛(東鳥)という句も残っており、その跡には、装束稲荷の祠が建てられています。徳川幕府代々の将軍家の厚い保護と共に、大老田沼意次が立身出世したのは、屋敷に稲荷が祀ってあったからという評判によることもあって、庶民の中に稲荷信仰が大層盛んになり、中でも王子稲荷の商売繁昌と火防せ(ひぶせ)の御神徳は広く知れわたる処となりました。そして、江戸中期より二月の初午には「火防守護の凧守」が授与されるようになり、これを祀ると火難を免れ、息災繁昌するとて社頭は賑いを呈し、これに因んで、縁起の凧を商う凧市が境内で開かれるようになり現在に至り、東京名物となっています。 社宝には、絵画に、近世の大家柴田是真の「茨木」の扁額があります。これは、天保十一年のもの、作者の出世作といわれる名品で、昭和九年九月一日、文部省から重要美術品に指定されました。 この図柄は、゛その昔、羅生門に出没して、京の民衆をおびやかしていた鬼女があり、渡辺綱という武将によりようやく退治されたものの、その七日後、渡辺綱の伯母にばけて訪れ、その折に切り落された自分の片腕を取り返すやいなや、元の鬼女の姿に戻り、地をけって空に舞い戻ってしまった゛という話の最高の場面を描いたものです。 奉納者の砂糖問屋組合は、当時天保の改革で各方面の粛正をしていた幕府に対して、商権回復運動をしていたので、とりあげられた商権を鬼女の腕にたとえて大願成就を願意を籠めたものであるという挿話が伝えられています。 拝殿の天井には、幕府の御殿絵師・谷文晁の「竜」の板絵が二枚掲げられていましたが、そのうち一枚の墨絵の方は、今回の修繕時に史料館へ収蔵され、代りに院展同人の画家・関口正男筆の「鳳凰」がはめ込まれています。 −『平成祭データ』− |
大晦日に王子稲荷神社に参詣する狐たちは、まず
当社の東400mにあった装束の榎と呼ばれた大きな榎の下で、
装束を調えてから参詣したという。
現在、その榎の木は無いが、近くに装束稲荷神社が祀られている。
榎の下に集まった狐たちが灯す火(狐火)によって
作物の豊凶を占ったといい、
その光景は安藤広重の浮世絵に描かれている。
現在、地元の方々によってこの模様を再現した
「狐の行列」が、大晦日に行われている。
装束稲荷神社 |
玉を咥えた狛狐 | 装束稲荷神社 | 鍵を咥えた狛狐 |
装束稲荷の由来
今から約千年の昔この附近一帯は野原や田畑ばかりでその中に
榎の大木がありそこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られ
たのがこの装束稲荷でありますこの社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年十二 月の晦日の夜関東八ヶ国の稲荷のお使がこの社に集まりここで装 束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になってい て当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年 の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています 江戸時代の画 聖安藤広重もこの装束稲荷を浮世絵として残しています その後明治中期に榎の大木は枯れ土地発展に伴いその位置も現 在の王子二丁目停留所となり社はその東部に移されました 昭和二十年四月十三日の大空襲の際猛烈な勢で東南より延焼し て来た火災をここで完全に食い止めて西北一帯の住民を火難か ら救ったことは有名な事実であります この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので社殿を造営 せんものと地元有志の発起により多数の信者各位の御協力を得 て現在の社殿を見るに至りました この装束稲荷は商売繁盛の守護神のみならず信心篤き者は衣裳 に不自由することなく又火防の神としても前に述べた通りで信 者の崇敬を高めています
−境内案内板− |