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高椅神社
たかはしじんじゃ
栃木県小山市高椅702−1
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式内社 下總國結城郡 高椅神社 |
栃木県小山市にある。
栃木県だが、昔は結城郡に属しており、下総国にあたる。
結城駅の北4・5Kmの、道路と川に挟まれた場所に、南北に長い境内。
川横に駐車スペースがある。
境内入口からまっすぐに参道が北上し、赤い灯篭が並んでいる。
鳥居の後には立派な江戸中期の楼門。
朝日が昇った頃の参拝で、陽射しのため、写真がちょっとまだら。
でも、綺麗な神社。冬の朝で、身が引き締まる感じだ。
創建は景行天皇41年、日本武尊東征の折に、
白旗丘に御旗を立て、国常立尊、天鏡尊、天萬尊を祀ったという。
天武天皇12年に、磐鹿六雁命を合祀し、
通称、鯉の明神さまと呼ばれる神社。
磐鹿六雁命は、安房国高家神社の祭神。
料理の祖神で、その子孫・高橋氏は大膳職についていた。
当社・高椅(たかはし)神社も、古くは高橋明神といわれ、
高橋氏の氏神を祀った神社である。
当社から北へ1・5Kmに白旗の丘があり前方後円墳がある。
白旗神社が祀られているらしい。
境内の左右に幾つかの境内社がある。
白幡神社(武甕槌神)、稲荷神社(倉稲魂神)、大椙神社(大物主命)、
上宮神社(聖徳太子)、天満宮(菅原道真公)、真剣神社(日本武尊)、
春日神社(天児屋根命)、東照宮(徳川家康公)、天建神社(素盞嗚尊)、
健田神社(健田大神)、その他にも石祠などいくつか。
参道 | 楼門 | 社殿から楼門 |
楼門前の鳥居 | 楼門~社殿 |
境内 |
本殿 | 拝殿 |
境内社 | 境内社 |
当社の創立は、景行天皇の四十一年、日本武尊が御東征の折、現在の白旗丘(当社北方約一粁)に御旗を立てられ、国常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。 その後、天武天皇の十二年(六八四年)祭神の後裔高橋朝臣が氏祖神磐鹿六雁命を合祀して、高椅神社と尊称するに至った。 延喜式の神名帳(九二七年)に登載されている古社である。 磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の一人である大彦命の御孫に当られる御方で、景行天皇が、御皇子日本武尊の御東征の戦跡を御巡視なされた際、膳臣としてお供をなされ当地まで来られたが、老令のためお許しを得てこの地にとどまり、以後代代豪族としてこの地方を支配した。 天武天皇の十二年、朝廷より高橋朝臣の姓を賜わり代代高橋朝臣を襲名した。 「高椅」の地名も高橋朝臣よりとったという。 後一条天皇の長元二年(一○二九年)社域に掘った井戸から大きな鯉が出たため奇異であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、誠に霊異なことと思召され、「日本一社禁鯉宮」の勅願を賜わった。 以来氏子民は、鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁ぜられたが、今日までこの禁を犯す者がなく、鯉を食べないことは勿論、五月節句の鯉のぼりも立てない風習が現存している。 当社が「鯉の明神さま」と親しまれているのは、この由緒によるものである。境内の南端にある神池には、氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。 結城代代の城主の崇敬殊に厚く、政朝、政直、政勝、晴朝、秀康の各城主よりの寄進状、祈願文、修行留等二十余通神納され現存する。 殊に秀康公が、越前福井へ国替になった後も代々例度の代参を欠かすことがなく、明治維新まで続けられた。 明治五年郷社となり、同十年七月県社となる。 −『平成祭データ』− |
【 高椅神社 (小山市) 】