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靖國神社
やすくにじんじゃ
東京都千代田区九段北3−1−1
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旧別格官幣社 |
東京都千代田区九段にある。
都営新宿線、半蔵門線、東西線の九段下駅の西側に表参道入口がある。
緩やかに上る坂道の上に大鳥居が建ち、参道を進むと、
参道中央に大村益次郎の銅像。
大村益次郎に見下ろされながら参道を進み
二の鳥居をくぐり、大きな神門をくぐると、
正面に大きな社殿が見えてくる。
出張の合間に時間を作って参拝したが、境内では何かの工事が行われており、
次の予定まで数分しかなかったので、境内散策は諦めて、急いで参拝。
境内に南側にある元宮にも近づけなかったので、境内社の写真もないのだ。
明治維新達成において犠牲となった殉難者をはじめ、
諸事変・戦役において国事に殉じた英霊二百四十余万柱を祀る神社。
明治元年六月二日、東征大総督・有栖川宮熾仁親王が江戸城に於いて
幕府軍追討のため関東・奥州の各地で戦没した将兵の慰霊祭を行った。
明治元年五月に、京都東山に霊山招魂社(霊山護国神社)が設けられ
翌二年三月、東京遷都にともなって、各藩内に招魂社設立の機運が高まった。
東京では、軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王の命を受けた
軍務官副知事・大村益次郎らは、九段坂上の旧幕府歩兵頓所跡を社地に選定。
明治二年六月二十七日、東京招魂社の仮本殿が竣工され、
これが当社の創祀。
皮肉にも大村益次郎は、直後の明治二年九月に暗殺され、当社に合祀されている。
まず、鳥羽伏見の戦から函館戦争までの戦没者が祀られ、
その後、嘉永六年(1853)以降の維新の志士、
佐賀・神風連・秋月・萩の乱、西南の役の殉難者を合祀し、
明治十二年、靖国神社と改称。
さらに、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、
満州・支那事変、太平洋戦争などの殉難者を合祀し現在に至る。
境内に南側、回廊の南門外に元宮と鎮霊社が祀られている。
参拝した日には何かの工事をしておりフェンスの向こうで撮影できず。
後日、東京へ行った時に再度参拝し、元宮や鎮霊社、境内を撮影して来たので写真を追加。
元宮は、文久三年(1863)八月、
福羽美静ら津和野藩士が、京都祇園社境内の小祠に、
安政の大獄で失墜した三条実万・徳川斉昭ほか六十四柱を祀っていたもの。
幕府の嫌疑を恐れ、福羽邸に移していたが、昭和になって境内に遷座。
つまり、招魂社のオリジナルという意味で元宮というのだろうか。
鎮霊社には、本社に祀られなかった英霊や諸外国の戦没者の御霊が祀られている。
参道入口の鳥居 | 大村益次郎の銅像 | 大村益次郎 |
二ノ鳥居 |
神門 | 参道 |
境内 |
三ノ鳥居 |
社殿 |
鎮霊社 | 元宮 |
境内 |
靖國神社の概要 靖國神社は、我が国が幕府政治体制から近代国家体制に大きく生まれ変わろうとする時に、不幸にして避けられなかった明治維新の内戦(戊辰戦役)において、国のために一命を捧げた人たちの霊を慰めようと、明治二年(一八六九)六月、明治天皇が「東京招魂社」として現在の位置に建てられたのが起源で、同十二年(一八七九)には、「靖國神社」と改称されて今日に至っている御社です。 明治天皇が命名された、この「やすくに」という御社号には、「国を平安(安の字は靖に通ずる字)にし、平和な国をつくり上げる」という御心がこめられ、祀られている神々も、すべてこの天皇の御心のように、祖国永遠の平和とその栄光を願いつつ、日本民族を守るために掛け替えのない尊い生命を国に捧げられた同胞たちで、これらの方々は、身分・職業・年齢・性別等にかかわりなく手厚く祀られています。明治二年(一八六九)六月に、戊辰戦役で戦死された三千五百余柱の方々をお祀りしたのを初めとし、その後に起こった「佐賀の乱」・「西南の役」・「日清戦役」・「日露戦役」・「第一次世界大戦」・「満州事変」・「支那事変」・「大東亜戦争」等の事変・戦役で戦死された方々、さらに嘉永六年(一八五三年、いわゆる黒船が浦賀沖に来航した年)以来明治改元までの十五年間の幕末多難時代に、「安政の大獄」や「禁門の変」等による犠牲者を始め、国事に盡してたおれられた方々(吉田寅次郎(松陰)・橋本左内・坂本龍馬・高杉晋作・頼三樹三郎・真木和泉守・清川八郎・中岡慎太郎等々、歴史上に著名ないわゆる幕末の志士、並びに平田捨四郎・仁位馬寿ら生後六ヶ月の無名の志士家族ら数千柱の方々)をも明治二十年(一八八七)ごろから合せ祀り、現在の御祭神総数は二百四十六萬余柱に及んでいます。 靖國神社というと、戦死した軍人ばかりを祀っている神社のように思われがちですが、決してそうではなく、五萬七千余柱の女性の御祭神も含まれ、これらの中には、従軍看護婦を始め、主婦、小・中学校の児童・生徒、それに二歳にも満たぬ童女さえも含まれています。 一、二の具体例をあげますと、幕末時代のことですが、元治元年(一八六四)、常陸国(現在の茨城県下)水戸藩で起こった事件で死歿した田原彦三郎道綱という侍の妻多加(三十五歳)とその長女千代(十七歳)、二女喜代(二歳)は、連帯者として幕府の手に捕えられ、獄中でたおれたため、明治二十四年に合祀されました。 また、沖縄で戦歿した「ひめゆり」・「白梅」等の七女学校部隊の女生徒の方々、「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中、悲惨にも敵潜水艦によって撃沈されて、幼い生命を断たれた小学校女子児童たち、大東亜戦争終結直後の昭和二十年八月二十日、ソ連の不法侵攻を最後の最後まで内地に通話し続けて、ついに自決殉職された樺太(現在のサハリン)真岡の女子電話交換手の方々らも皆、昭和三十年代から四十年代にかけて合祀された女性御祭神の方たちです。 さらにまた、大東亜戦争終結時に責任を負って自決された方々、いわゆる戦争犯罪人として連合国側によって一方的に処刑された千余名の方々(当神社においては、これらの方々を「昭和殉難者」と呼称しています)、民間防空組織の責任者として敵機の空襲下に活躍中爆死された方々、学徒動員中に軍需工場等で爆死された学徒らも皆、御祭神としてお祀り申し上げております。 このように靖國神社には、戦場で戦死された軍人、軍属ばかりでなく、文官、民間の方、女性をも含めた多種多様の御祭神が祀られており、日本国民だれしもが崇敬し、奉賛するに相応しい御社なのです。 なお、御本殿に向かって左側回廊の外側に、元宮と鎮霊社という二つの小さな御社があって、元宮というのは、文久三年(一八六三)、幕末の国事にたおれた志士の霊を慰めようと、京都において少数の有志が幕府の目をはばかって、ひそかに建てた小祠が元で、改築等幾多の経過を経て七十年後の昭和六年、靖國神社に奉納され、招魂社の元をなすともいうべきものとして、元宮と称して今日に至っています。 鎮霊社(昭和四十年七月創建)には、靖國神社に合祀されていない方々の御霊と、国籍を問わず、萬国の戦死者あるいは戦禍犠牲者の霊が祀られています。 右二社は、御本殿の神々と同様、日々宮司始め神社職員によって奉仕されています。神社として一番重要な祭典は春秋の例大祭と合祀祭です。「春季例大祭」は、毎年四月二十一日から二十三日まで、「秋季例大祭」は、十月十七日から十九日までのそれぞれ三日間にわたって執り行われ、これらの祭典には勅使(天皇の御使者)が差しつかわされ、皇族方も親しくご参拝になります。 また、神社ご創立以来、天皇・皇后両陛下のご参拝も度々行われ、明治時代に十一回、大正時代に五回、昭和になってからは実に五十四回の行幸啓をあおいでいます。「みたま祭」は、昔から我々日本国民の多くが先祖の祭をする、いわゆる「お盆」にあたる七月十三日から十六日までの四日間執り行われ、奉納された各界名士の揮毫ボンボリ、御遺族・戦友・崇敬者らから奉納された提灯が参道を埋めつくし、年間一番多くの参詣者をお迎えする夏祭ともいうべきものです。 この外神社としては、新年祭、建国記念祭、御創立記念日祭、明治祭、天皇御誕辰奉祝祭、月次祭(毎月一日、十一日、二十一日)、さらに毎日の朝夕の御饌祭、永代神楽祭、御遺族・戦友による慰霊祭、昇殿参拝等をご奉仕申し上げ、永代神楽祭では、お申込みの御遺族等のご参列を求め、毎年永代にわたり御祭神のお名前を申し上げ、御神楽を奉奏して神霊をお慰めいたしております。 遊就館とその周辺は、神社参拝後必ず立ち寄らるべき聖域で、館内には御祭神方の魂魄のこもった御遺書・御遺品等が展示され、館外にも、これまた御祭神方が愛撫駆使された火砲・機関車・魚雷等が展示され、参拝で浄化された参詣者の心は、さらに一段と浄化感応されることと思います。 以上が靖國神社の創建とその性格、御祭神並びに祭典についての概要です。 今日の我が国の安泰と繁栄が、靖國神社の御祭神となられた方々の献身奉公によってもたらされたということに思いをはせて、子々孫々に至るまで、この御社を護持していただきたいと願う次第であります。 −『平成祭データ』− |