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薩都神社
さとじんじゃ
茨城県常陸太田市里野宮町1052
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式内社 常陸國久慈郡 薩都神社 |
茨城県常陸太田市にある。
常陸太田駅から北上して4Kmほど。
里野宮の道路側に、里川の西岸に南向きに鎮座。
此より北に薩都の里あり。古、國栖あり。名を土雲といふ。 ここに、兎上命、兵を發して誅ひ滅しき。 時に、能く殺して、「福(さち)なるかも」と言へりき。 因りて佐都(さつ)と名づく。北の山に有らゆる白土は、畫に塗るべし。 東の大き山を、賀毘禮の高峯と謂ふ。 即ち天つ神有す。名を立速男命と稱ふ。一名を速経和気命なり。 本、天より降りて、即ち松澤の松の樹の八俣の上に坐しき。 神の祟、甚だ厳しく、人あり、向きて大小便を行る時は、 災を示し、疾苦を到さしめければ、近く側に居む人、 毎に甚く辛苦みて、状を具べて朝に請ひましき。 片岡の大連を遣はして、敬ひ祭らしむるに、祈みてまをししく、 「今、此處に坐せば、百姓近く家して、朝夕に穢臭はし。理、坐すべからず。 宜、避り移りて、高山の浄き境に鎮まりますべし」とまをしき。 是に、神、祷告を聴きて、遂に賀毘禮の峯に登りましき。 其の社は、石を以ちて垣と為し・・・ 『常陸国風土記』より
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祭神・立速男命は、最初、松澤(当社の南、松崎周辺か?)の
松の樹に、天降ったが、人里に近く穢れがあり、祟りをなした。
そこで、朝廷は片岡大連を派遣し、祈請して、
賀毘禮の高峯(当社の北東9Km神峯山か御岩山か)に遷座したという。
社伝では、延暦七年の創祀。
延暦19年に賀毘禮の高峯に遷座。
大同元年、小中島へ、大永2年、現社地へ遷座したという。
南の入口鳥居前に、松の枝が交差して、自然の鳥居状態。
参拝日は小雨だったため、境内に入るとやや暗かった。
境内の西側は道路になっており、道路からも本殿の側面を
木々の間に見ることができる。
349号線から本殿 | 境内入口の松と鳥居 | 境内社の鳥居 |
境内 | 社殿 |
境内から参道 |
本殿 | 本殿 |
延喜式内久慈郡二ノ宮薩都神社
茨城県常陸太田市里野宮町鎮座所在神地常陸太田市街より東北四粁の地、里美村小里を経て福島県東館、 棚倉町に通ずる所詮里川沿岸佐都郷の地の総鎮守として鎮座して居る。 御祭神・立速日男命(速経和気命) 由緒沿革・上古立速日男命松樹に降臨し給ふ。当地里家に近くして不浄多く、 祟り甚だ厳格なり。里人畏敬して、延暦七年(七八八年)社を建てて祀る。 邑人朝廷に奏請せしところ、片岡の大連を派遣、祭事を厳修「穢の多い里 よりも高山の浄境に鎮り給へ」と告せられ、神聴き給ひて延暦十九年 (八〇〇年)賀毘礼の峰に上り給ふ。 而して賀毘礼峯けはしく人々参拝に苦しむ、よって大同元年(八〇六年) 平良将仕へ祠を小中島に奉遷す。承和十三年(八四六年)九月勲十等薩都神 に従五位下を授く。貞観八年(八六六年)五月正五位下を授く、 同十六年拾二月従四位下を授く。 常陸太田城主藤原通延の子通成佐都宮に住し、その子通盛小野崎の地に居城、 佐都荘を治め、代々祈願所と定め、一族又氏神と仰ぐ。 正平年中佐竹左近将監義信本社を修造。永正以降佐都郷三十三ケ村の総鎮守なり、 大永二年(一五二二年)佐竹右京大夫義舜更に今の地に遷す。 毎年九月神入四間御岩の山に入る。即ち賀毘礼の峯なり。明年四月出て本宮に還る。 因て時に随って例祭を修む。慶安元年将軍徳川家光圭田五十石を供す。 除地十三石九斗四升三合を享く。延喜式内常陸二十八社の一、 久慈郡七座の内二の宮と称え奉り官社に預る。 明治六年六月郷社に列格、同四十年四月十日供進指定、 昭和二十七年六月十四日宗教法人設立。 −『平成祭データ』− |
【 薩都神社 (常陸太田市) 】