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佐波々地祇神社
さわわくにつかみじんじゃ
茨城県北茨城市大津町1532
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式内社 常陸國多珂郡 佐波波地祇(神)社 |
茨城県の北茨木市にある。
常磐線・大津港駅の南東3Kmほどの大津町に鎮座。
大津港の通りから北へ少し登った場所に境内がある。
北へ上らずに東へ進むと、東日本大震災で流出した六角堂がある。
そんな場所に鎮座。
境内横に砂利の駐車場があり、車ですぐそばまで行くことができる。
参拝は、東日本大震災から2か月経過した6月はじめ。
港のガレキは綺麗に処理されていたけれど、
路地に入ると崩壊した家がまだ残っていら、そんな頃。
参道階段を上ると、石造の神明鳥居が立ち、
さらに階段を上ると社殿のある境内だが、
境内の灯籠の多くは倒れ、石の記念碑や手水石も倒れていた。
社殿前の鳥居の島木(上端の横棒)も落ちていたが、
社殿には特に大きな被害は無い様子。
日本の木造建築の耐震性って凄いなぁと思いながらの参拝。
社殿は入母屋造の美しい拝殿と、
拝殿の後方、垣の中に入母屋造の華麗な本殿がある。
港に面した丘に鎮座しており、港の守護神なのだろう。
本殿の左手には、錆びた碇が多く奉納されていた。
この丘は、
宮平とも唐帰山(からかいさん)とも呼ばれる海抜55mの台地。
境内には、享保年間以前に地下30mから汲み上げた御神水がある。
社号の「佐波波地祇神社」は、
『平成祭データ』には「さわわちぎじんじゃ」とあるが
『全国神社名鑑』には「さわわくにつかみじんじゃ」となっている。
六所明神とも大宮明神とも称される神社。
創祀年代は不詳。
社伝では斎衡年間から天安年間(9世紀中ごろ)の創祀。
三代実録に、貞観元年に従五位下を授けられた佐波波神とあり、
一説には、貞観十七年に記されている三枝祇神であるとも。
式内社・佐波波地祇神社の論社。
(延喜式写本によっては佐波波地祇社)
元は大津町内の澤山(佐波山)に鎮座していたという。
日本武尊東征のおり、
海上波風を鎮められたこと謝して奉賽したと伝えられている。
元禄年中、徳川光圀より神鏡が奉納され大宮明神と改称。
澤山から大津町内東堂下に遷り、さらに現社地に遷座したという。
水戸藩主の崇敬を受け、明治二年郷社に列したが、
明治四年村社となり、明治十三年郷社に戻ったという。
社殿の右手に「かね牛」。
八坂神社、素鶩神社などが祀られている。
境内の右手には丸徳稲荷、浜諏訪神社、武田姫稲荷。
大黒様の像が置かれており「なでてください」と書かれていたので
黒光りしている頭を撫でて祈願。
駐車場側に招魂祖霊社があり、表参道の脇道の奥にも小祠がある。
他にも境内社がありそうだ。
『平成祭データ』には、当社の末社として以下の名が載っている。
地図を見ると大津港の周囲に幾つかの神社があるが
それらは、当社の境外末社になっているようだ。
水天宮、稲荷神社、素鵞神社、諏訪神社、海津見神社、姫宮神社、
大山祇神社、淡島神社、八坂神社、愛宕神社、三峰神社、津之神社、
安波大杉神社、稲村神社、尾崎神社、足尾神社。
参道と鳥居 | 参道脇の伍社稲荷 |
境内、倒れた灯籠と鳥居 |
拝殿 | 本殿 |
境内 |
倒れた御神水手水石 | 倒れた記念碑 |
かね牛 | 八坂・素鶩社 |
丸徳稲荷 | なでてください大黒様 |
浜諏訪神社 | 武田姫稲荷 |
駐車場側参道入口 | 招魂祖霊社 |
佐波波地祗神社由来 当社の創立は、斎衡天安の間と伝ふ。三代実録には、清和帝貞観元年4月26日辛亥常陸多珂郡正六位上佐波波神進従五位下云々とあり、又神道集成式内神社編に、延喜式常陸二十八社多珂郡一座小佐波波地祗神社「三代実録佐波波神按今在大津邑天日方奇日方命面号大宮大明神云々」とある。鎮座地を唐帰山と云ひ、古来武将の崇敬が厚く、特に海上守護の御神徳顕著。伝説に日本武尊命御東征の砌、大津の沖皇浦に於て逆浪に漂い給うこと数旬、一夜白衣の神人、雲龍に乗って枕頭に立ち給ひ「我佐波波神なり、今皇子の御船を守護せんが為来れり、直に順風にさせん」と、夢さめれば果たして其の言の如くなる。早速使を奉幣、報賽の誠をささげられたといふ。又水戸光圀公船で、北陸探険の途中海上に漂い給ひし時、遥かに当山の松影を認め、進路旬日にして接岸することができたといふ奇瑞があり、それらの故事と松影から、唐蓋山=唐帰山と呼ばれてゐる。佐波波神佐波波地祗また六所明神と尊称されておったが、元禄中に光圀公が神徳を景仰して、神鏡一面を奉納し、称号を改めて大宮大明神とした。当社は古くは佐波山にあったものを、東堂平の地に移し、更に現神域を卜定して鎮座したといふ。 −『平成祭データ』− |