[HOME] > [神社記憶] > [関東地方] > |
|
こうもうじんじゃ
茨城県北相馬郡利根町立木882
|
||
式内社 下總國相馬郡 蛟蝄神社 |
茨城県利根町にある。
成田線・布佐駅の北東6Kmほどの立木に鎮座。
栄橋を渡って利根川を超え、4号線を1.5Kmほど進み、
新利根川に沿って東へ2Km程度入った場所。
209号線と合流する手前、集落の北側、老人ホームの隣に境内がある。
境内入口は南側。狭い道に面して参道の階段があり、
階段脇には「蛟蝄神社(奥の宮)」と書かれた案内が建っている。
当社は、蛟蝄神社の奥の宮と呼ばれており、
当社の西300mほどの位置に門の宮と称する神社がある。
階段を登ると、入口に比して広い境内。
鳥居をくぐり、石板の参道を進むと正面に社殿。
赤い屋根の拝殿の後方に、垣に囲まれた流造の本殿がある。
拝殿の屋根は寄棟造になっているが、向拝が前面に突き出した形状。
屋根瓦の部分が、面白い形をしていた。
参拝日はあいにくの雨だったが、シトシトと静かに降る雨が良い感じ。
境内に小さな石祠が幾つか祀られている。
一つの石祠の前に「氏神」と刻まれた石が建っているが
詳細は分からない。
『茨城県神社誌』には、境内社・琴平神社と記されているが分からない。
社伝によると、
孝霊天皇三年(前288)に水神の彌都波能賣命を
文武天皇二年(698)に土神の波迩夜須毘賣命を祀ったのが始まりという。
一般的には、文武天皇二年の創祀。
一説には、蛟蝄(ミヅチ)は「ミヅ」と「ツチ」を意味し
水神と土神を祀ると考えられているが
蛟蝄=ミヅチで、蛇神の一種と考える方が普通。
利根川の水害に対する畏怖によって祀られた神社だと思われる。
貝塚遺跡などの分布から、
当社の西にある門の宮が本来の鎮座地であったと思われるが
水害によって、あるいは里から近すぎるという理由により
東方台地を開き遷座させて本社とした。
その後古社地を、遥拝所、あるいは里宮として機能させ
門の宮と称するようになったらしい。
当社は文間明神とも言い、当地は昔、文間村と称していた。
かれは、「蛟蝄」が「蚊蝄」「蚊虻」と変化し
「ブンモウ」と読まれ、「モンマ」となったという。
「蚊虻」は「カ」と「アブ」だから神名・地名としては相応しくないのだろう。
本社(奥の宮)境内入口 |
階段上の鳥居 | 境内 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
拝殿屋根の鬼瓦 | 境内の小祠 |
奥の宮の西300mの位置に「門の宮」が鎮座。
境内入口には「立木貝塚」の案内が建っている。
入口鳥居の左手に大きく枝を伸ばした立派な木があり、
階段脇には「蛟蝄神社(門の宮)」と書かれた案内がある。
その鳥居をくぐり参道階段を上ると境内。
境内中央に石板を敷いた参道があり、参道右手に手水舎。
社殿の形状は、奥の宮とほとんど同じ。
赤い屋根の拝殿も同じ雰囲気だ。
本殿の右後方に、石祠や十五夜待石碑が幾つか祀られているが詳細はわからない。
門の宮入口 |
参道脇の木 | 鳥居 |
境内 | 境内の小祠 |
本殿 | 社殿 |
郷社 蛟蝄神社 同村立本[原文ママ] 祭 神 水波能女命、埴山比賣命 由 緒 文武天皇二年創立。延喜の制式内に列 す。慶長三年八月藤井勘四郎信一増修。同九 年三月将軍徳川家康圭田五十石を進む。明治 四年七月郷社に列す。明治四十二年九月東文 間村社稲荷神社(宇氣母智能命)惣新田村社八 坂御社(天照大神 素盞嗚尊)同無格社保食神社 (太田命 保食命)加納新田村社厳島神社(市杵島姫命) 翌四十三年五月同立崎村社水神社(罔象女命=尚ほ當社は明治四十一年九月當村内 無格社四社神社(武甕槌命 經津主命 岐神 神皇産霊神)を當社に合併す)同福木村社稲荷神社 (宇氣母智能命)同七月同村無格社天神社(菅 原道真)同大神宮(天照大神)同四十五年三月 回奥山村社八幡神社(誉田別命)以上九社を當 神社境内社琴平神社へ合併す 境 内 奥ノ宮 四、三三一坪 門ノ宮 一七五坪 境内社 琴平神社(大物主命) −『茨城県神社誌』− |