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網戸神社
あみとじんじゃ
栃木県小山市網戸102
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栃木県小山市にある。
間々田駅の北西2Kmほど。
思川の西岸、網戸大橋の南側に鎮座している。
風の強い日の参拝で、網戸大橋をわたる時に車が揺れた。
創建年代は未詳。
筑前の宗像(むなかた)神社からの勧請と伝えられ、
式内・胸形(むなかた)神社の論社となっている。
社名の読みは、資料によっては、「アジト」「アミト」などがあった。
地名の網戸は、「アジト」と読む。
境内には、大き目の境内社が、稲荷と八坂の二つ。
小さな祠には、奥瀬、皇宮、北向天満宮。
その他にも幾つかの石祠が並んでいる。
鳥居 | 境内 |
境内社殿 |
拝殿 | 本殿覆屋 |
稲荷神社 | 八坂神社 |
奥瀬神社、皇宮神社 | 浅間大神 | 北向天満宮 |
その他の石祠 |
網戸神社由誌
当社の主祭神、田心姫命(水運の神)をいつ頃勧請したか
未だ明らかではないが社殿の再建は、平城天皇の御代、
大同元年(西暦八○六)十月二十八日である。醍醐天皇の御代に、延喜式内に列したともいわれたが 詳らかではない。 天慶二年、藤原秀郷は、平将門追討に際し当社に祈願 し、戦勝の砌、金百貫文を奉納した。 源頼朝も、文治三年、小山政光の妻、寒川尼を当地方 の地頭職に任じ、当社に領地を寄進した。以来、尼公を はじめ、歴代の網戸城主の崇敬も篤く、小山家の定紋 「左二ツ巴」を、当社の神紋としている。 この頃、藤原一族の祖神、天児屋根命(人神の間をとり もつ神)を併せて祀った。 江戸時代、後光明天皇の頃より、寛政、文政にかけて 社格問題その他で揺動し、かつ曲折した。 かくてその後、古河藩の治下にあっては、在郷の篤志 家等が、神官を輔翼して、当社を護持し、維新を迎えた。 明治新政府は、国家神道の観点から、神社の再編成を なしたが、当地方は大幅に遅れた。 大正三年五月二十日、渡良瀬川改修工事の一環として 堤防拡幅がなされ、当社は、本宿二、四四八番地の千古の 杜より、旧城内に遷宮した。 この年の八月十九日、沼ノ台の浅間神社、庚申塚の皇 宮神社、高揚の熊野神社、折本の奥瀬神社、本宿の八坂 神社、大境の神明宮を合祀し、既存の水神宮、天満宮、 千形神社、権兵衛稲荷神社、三峯神社等と共に境内神 社とした。 神事は、陰暦二月十五日(湯立)、六月十五日(八坂神社 の祇園祭)、九月十三日(十三夜)、及び陽暦十一月二十七 日(八郷廻りの御出)、十二月二十二日(稲荷神社の冬至祭) である。 神職は、天正以降、小山家譜代久楽持家の世襲である。 天地のつきることなく縁なす このふるさとの神をしぞおもう −境内案内より− |
【 網戸神社 】