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温泉神社
おんせんじんじゃ
栃木県那須郡那須町湯本上ノ山182
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栃木県那須町。
福島県との県境にある那須高原、那須湯本温泉にある。
東北自動車道那須I.C.から那須湯本を目指して北上し、
坂道を登って、温泉街を抜けたところにある。
温泉街に近づくあたりから硫黄の臭いがしてくる。
温泉神社の後方には、有名な殺生石がある。
神社境内から歩いて200m弱だが雪の日は止めた方が良い。
殺生石そばにも駐車場がある。
当社が温泉の神を祀った神社であることは明白だが、
やはり、なんといっても「那須余一」と「殺生石」だろう。
当社の御朱印帳には、この二つが用いられている。
源平屋島の合戦のおり、船上の扇を見事射落した
那須余一は当地方の武将。
扇を射る時に、那須温泉大明神に祈ったらしい。
殺生石は、大陸から渡って来た八百歳の妖狐・九尾の狐。
鳥羽上皇の頃に「玉藻前」と名乗り、朝廷に出入りする。
陰陽師・安倍泰成に、その正体を見破られ、
那須野ヶ原へと逃げる。
その後、三浦介、上総介によって退治されたが、
妖狐は毒石となり、ガスを噴出して人畜に害を与えるようになった。
源翁和尚によって、その恨みを封じられ、粉々に砕かれた。
神紋は、『栃木県神社誌』には卍紋とある。
本殿の屋根には、中央に卍紋。左に巴。
右の紋様が確認しずらかったが、たぶん、柊輪の中に沢瀉。
大関氏の紋だろうか。
境内は雪に覆われ、参道は除雪されていたが、
滑りながらの参拝だった。
芭蕉も当社に参拝し、殺生石を見たらしい。
茶臼嶽頂上には、当社奥宮が鎮座しているが
冬季は閉山されて登れない。
参道入口 | 参道鳥居 | 参道鳥居 |
雪の参道 |
参道左上の愛宕社 | 本殿右の稲荷社 | 参道右の見立社 那須温泉開祖 狩野三郎行広 |
境内社殿 |
本殿 | 本殿 | 温泉神社から殺生石へ |
延喜式内 温泉神社
−案内板より− |
殺生石周辺では、今でも硫化水素ガスが噴出しているらしく、
硫黄の臭いがする。
夏場は、周囲には草が茂るが、殺生石まわりだけ
草が生えないようだが、なにもかも雪に覆われた冬では
よくわからない。
変った石や地蔵などもあるようだが・・。
冬山登山で、上から降りてきた人の話では、
上は、雪というより氷が舞っている状態らしい。
殺生石 | 盲蛇石 |
殺生石の由来
殺生石は、昭和二十八年一月十二日史跡に
指定されました。この由来の概略は、昔中国や印度で美しい 女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面 金毛九尾の狐が今から八百年程前の鳥羽天皇 の御世に日本に渡来しました。 この妖狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に 仕え日本の国を亡ぼそうとしましたが、時の 陰陽師阿部泰成にその正体を見破られて那須 野ヶ原へと逃れて来ました。 その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えま したので朝廷では三浦介、上総介の両名に命 じ遂にこれを退治してしまいました。 ところが妖狐は毒石となり毒気を放って人 畜に害を与えましたのでこれを「殺生石」と 呼んで近寄ることを禁じていましたが、会津 示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐のう らみを封じましたのでようやく毒気も少なく なったと語り伝えられています。 芭蕉は元禄二年四月十八日奥の細道紀行の 途中にこの殺生石を訪れ 石の香や 夏草あかく 露あつし
と詠んでいます。
注意
殺生石附近は、絶えず硫化水素ガス等が噴
気していますので風のない曇天の日は御注意
下さい。盲蛇石 −その名の由来−
昔、五左ェ門という湯守が長くきびしい冬を越
すために山に薪を採りに行きました。その帰り道
五左ェ門がこの殺生河原で一休みしていると、2
メートルを越える大きな蛇に出会いました。大き
な蛇の目は白く濁り盲の蛇でした。かわいそうに
思った五左ェ門は、これでは冬を越せないだろう
と蛇のためにススキと小枝で小屋を作ってあげま
した。次の年、蛇のことを忘れなかった五左ェ門は、 湯殿開きの日に小屋に来て蛇をさがしました。し かし、蛇の姿はどこにもなく、かわりにキラキラ と輝く湯の花がありました。盲蛇に対する暖かい 気持が神に通じ、湯の花のつくり方を教えてくれ たのでした。 その後、湯の花のつくり方は村中に広まり、村 人は盲蛇に対する感謝の気持を忘れず、蛇の首に 似たこの石を盲蛇石を名付け大切にしたのだそう です。 −案内板より− |