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二宮神社
にのみやじんじゃ
千葉県船橋市三山5−20−1
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千葉県船橋市にある。
京成線・大久保駅の北2Kmほど、
新京成線・習志野駅の南東2Kmほどの三山に鎮座。
当社の北西1Km、成田街道(296号線)に、
二宮神社入口という交差点があることから、
当社への崇敬の大きさがわかる。
地図を見ると、当社周囲の道が、当社を中心として
放射状に延びているようにも見える。そういう神社。
道路に面して南西向きに参道入口があり、
鳥居をくぐって、一度参道階段を下り、少し歩いて階段を登ると境内。
参道が窪地の中を通っているのだ。
境内に入って正面に社殿。左手に大きな木が聳えている。
参拝は、休日の早朝。
まだ、社殿に灯りがともっている頃で、かなり暗かった。
ぶれないようにカメラを構え、シャッター速度を遅くして撮影。
そのせいか、写真を見ると、明るすぎてしまって、
参拝時の印象とは違ったものになったのが残念。
社伝によると、弘仁年間の創祀。
近郷二十三ヵ村の総社として三山明神と呼ばれた古社。
三山の地名は、御山から変化したもの。
式内社・寒川神社の論社の一つ。
参道の窪地を流れる清流を「サムカハ」と云うらしい。
現在の祭神は、出雲系の神々だが、
本来は、この川の神、農耕の神を祀ったものと考えられている。
二宮の社号は、下総国二宮ということらしい。
神紋は『神社名鑑』には、九曜紋と記されていたが、
社殿には、亀甲に七曜の紋が付けられていた。
ようするに、星を象った紋。
千葉に、月星の紋が多いのは、千葉氏の妙見信仰に由来するとか。
参道入口 | 参道を一度下り | 清流を越え、階段を登る |
神楽殿 | 社殿 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
二宮神社御由緒
一、由緒 一.当社の儀は弘仁年間嵯峨天皇の勅創に係り、古来寒川神社二宮大明神と聯称す。往昔より近郷二十三ケ村の総鎮守にして、丑未七年目毎に二宮神社外八神社の神輿を会し大祭を執行す。 二.治承四年、藤原師経当国へ左遷の際、同人及神官倶々協議して左大臣藤原時平公を本社の相殿に合祀す。 三.慶長年中、東照宮上総国東金へ御成りの砌り、御参詣の際御墨印寄せられ、二代将軍秀忠公より御朱印御寄附、三代将軍家光公より御朱印を以て下総国千葉郡三山村に於て御神領拾石御奉献。其の後貞享元年三月十一日、東照宮より四代将軍家綱公まで神官宅火災の砌り御朱印焼失に付其の砌り寺社奉行へ御訴へ申上げ御吟味相済、翌二年六月十四日、五代将軍綱吉公より御朱印前々の通り御社領御寄附あり。(現在の御社殿は安永年間再造営せるものなり) 四.明治四十三年十二月十六日、千葉郡二宮村三山字北ノ海道一九九番、無格社若宮八幡神社(大雀命)、同所字西ノ庭四四、二宮神社摂社阿波八幡神社(誉田別尊)御本社へ合祀す。 一、大祭起源及沿革 当社は今を去る五百有余年前、馬加村(千葉市馬加町)の城主陸奥守康胤奥方懐妊、十一ケ月到るも何等出産の模様なきをいたく憂い、三山村二宮神社、畑村子安神社、馬加村子守神社、武石村三代王神社の各神主に命じて馬加村の磯部に地を相会し安産御祈祷の祭禮たる産屋の古式を執行せしむ。(磯出祭は是なり)さる程に奥方安産あり然も男子御出生の事とて康胤初め家臣領民等殊の外喜び此神徳に報いんと総社二宮神社二宮安産御禮の大祭を執行する様領内村々に告げ知らせ、康胤は此度出生せる若殿を伴ひ家臣一同を引連れいとも麗やかなる大祭を挙げたり。(是れを安産御禮大祭と云ふ)是ぞ三山大祭の濫觴にして後年此二つの祭を一つに合せて同時に式事を執行する様になりたり。此処に「三山の祭後が先」と云ふ伝説生じたり。是より庶人亦其霊徳に浴せんと安産の祈願をなす者多きを加へ今や関東一の御産の神として有名となり、この先例を丑年未年の七ケ年毎に踏襲し本社の外八神社、三山・二宮神社、畑・子安神社、馬加・子守神社、武石・三代王神社、久々田・菊田神社、高津・高津比咩神社、実籾・大原神社、大和田・時平神社、古和釜・八王子神社の神輿三山神揃場に集ひ其れより行列を以て御本社に参進し大祭を執行す。当夜は馬加村磯部に四基の神輿相会し安産御祈祷の式事を行ふ。この夜畑村に必ず男女の出産ありて後七年目の大祭には稚児となり参列する。 −『平成祭データ』− |
【 二宮神社 (船橋市) 】