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白旗神社
しらはたじんじゃ
神奈川県鎌倉市西御門2−1−24
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神奈川県鎌倉市にある。
鶴岡八幡宮の東500mほどの西御門に鎮座。
金沢街道から北上し、小学校の横を通ると当社境内に到着する。
その道をまっすぐ進むと階段があり、階段途中に鳥居があるが
当社境内は階段の下に、東向き。
境内入口の鳥居をくぐると正面に社殿がある。
境内前の道を北上し、階段を登ると
当社祭神の源頼朝公の墓があり、国指定史跡になっている。
墓の脇に「希義公の土と石」というものがある。
平治の乱の時に13歳の頼朝は平家に捕らえられたが
弟・希義(3才)も捕らえられ、以後、兄弟は再会する事が無かった。
そこで、平成になって兄弟の墓所の土と石を交換したらしい。
希義の墓は、高知市の介良にある。
この地は、もと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、
源頼朝が、石橋山の 合戦にあたって髻の中に納めて戦ったという
観音像が安置されていた。
『吾妻鏡』によると、その創建は文治五年(1189)。
頼朝没後には法華堂と呼ばれて、
鶴岡八幡宮、勝長寿院とともに三大寺として崇敬を集め
江戸時代には、鶴岡八幡宮の供僧相承院が兼務していたが、
明治維新の後、明治五年に白旗神社となったもの。
北条氏が三浦氏を滅亡させた宝治合戦では、
三浦一族五百名が法華堂に籠り、頼朝の神霊の前で自害したという。
社殿前の賽銭箱に丸に二つ引の紋が刻まれていた。
頼朝の家紋は、頼朝の墓に刻まれている笹竜胆紋のはずだが
なぜ引両紋が付いているんだろう。
境内 | 社殿 |
頼朝墓への階段 | 頼朝墓 | 希義公の土と石 |
頼朝墓 |
−境内案内板より−
頼朝は源氏の御家人武士を統制するため侍所、ついで公 文所などをおき、幕府の組織をととのえ、右近衛大将となり、 さらに征夷大将軍に任ぜられて、幕府を開いた。正治元年 (一一九九)五十三才で亡くなった。墓の下方の平地は当時 の幕府跡である。 −境内案内板より− |
頼朝の墓から東へ行くと、
三つの洞窟のようなものがあり、
頼朝に仕えた大江広元、島津忠久、
大江広元の子で、戦国大名毛利家の始祖である毛利季光の墓がある。
この毛利季光は、宝治合戦で妻の実家三浦氏方に付いて敗北し、
法華堂(白旗神社)で息子らと共に自刃した。
大江広元等の墓所 |
左・毛利季光 | 中央・大江広元 | 右・島津忠久 |